ぴたぱんの備忘録

物語と人が好き。本とか映画とかドラマとかゲーム実況とか漫画とかアニメとか。触れた直後の想いを残しときます。

エンタメ・フィクションについて

ハロウィンも終わり、クリスマスソングがところどころで聞かれる季節になりました。暇な方はとりとめのない駄文にお付き合いください。

 

0. はじめに

 22年間の半生において、現実で得た幸福の総量よりも小説・その他読書・ドラマ・映画・アニメ・ゲームで得た幸福の総量の方が多いのではないか、そう思えるほどそれらにのめり込んだ生活を送ってきた。物心ついた時には本を片手にしていて、4歳の頃には『ハリーポッターと秘密の部屋』のような分厚い本にも手を出していた。小学生の頃は外で遊ぶ同級生を尻目に500ページとかの分厚い本を抱えて図書館に足繁く通っていたし、小学校高学年〜中学時代に思春期特有の「友達と話さないで本読むと浮くかな」的な考えを抱くようになっても家に帰ればずっと本を読んでいた。ドラマも人並みに見てきた上に、大学に入ってゲーム・アニメ・映画にまでかなりの時間をかけるようになった。映画だけ詳しい人・アニメだけ詳しい人・小説だけ詳しい人なら無数にいるが、割と満遍なく広く浅くやっている方だと自負している。

「現実なんてコミュニティの一つ。そのコミュニティが合わない人は現実を適当にこなしながらフィクションの世界で楽しめばいい」をモットーの一つにしている。

この記事では、ポップカルチャーに属する大衆小説・大衆音楽・ドラマ・映画を念頭に私が思うことをつらつらと書いていきたいと思う。

 

1.  ポップカルチャーハイカルチャー・高尚/低俗

18歳の時分、上京して東大に入学して真っ先に感じたショックはハイカルチャー圏の人が、多数派とはいえないとはいえそれまで自分のいた環境よりはるかに多いことだった。当たり前のように古典、純文学、伝統芸能、クラシック、美術等々が話題に上がる。映画にしても、洒落たハイソな一昔前のフランス映画なんかに詳しかったりする。(フランス語クラスだったのでその影響も少なからずあるだろう。)彼らの親は、高校時代の友人は、そういったものを摂取して生きてきたのだろうか。だとすれば彼らは顔は目が二つ鼻が一つ耳が二つで似たようなものだが中身は全く違う生物なんじゃないかとも思った。公立小中高出身の私は、もっと下卑た粗野な娯楽で友人と会話し、生活を彩ってきた。周りにハイカルチャーの話をしている人なんて県内一の進学校だった高校でも誰一人いなかったように思う。

そもそもcultureとはhigh cultureを指す語だったときく。colere:耕すが語源だというのだから、涵養に資するようなものこそが「文化」だったのだろうか。ポップカルチャーでも人格や知性の涵養はできると思うが。

少し前、twitterで「文化資本」がトレンドワードだったことがあった。ブルデュー社会学にちゃんと触れたことがないので適当なことは言えないが、親が子供に引き継ぐ資産として、家の文化的な財や学歴、ハビトゥスといったものを含めるという理論が広く受け入れられているようだ。家にグランドピアノや美術作品、岩波文庫ちくま学芸文庫がたくさんある家庭が、家にテレビや自己啓発本、ファッション誌しかない家庭より豊かで望ましいとは思わないが。子供の学歴と文化資本にはまあ相関くらいはあるのだろう。

日本は文化的に平等な国だと言われることがある。貴族文化が残る国や途上国に比べればそうかもしれないが、やはり「住んでる世界が違う」と感じるような人はいるものだし、家庭差、性差なんかもある(女性は男性よりハイカルチャー志向が強く、婚姻を通じてそれを経済的資本に変換するらしい)

文化の権力―反射するブルデュー

文化の権力―反射するブルデュー

 

貴賎をつけたくない。自分が"大衆側"であるがゆえにバカにされたくないからだろうか。確かに私から見ても「低俗だな」と感じる文化もある。(恋愛観察バラエティとか…)まあでも私は法律的にグレーであるゲーム実況を毎日見て、実況者のしょーもない下ネタでゲラゲラ笑っているような程度の人間だ。どんな文化も、それを好む人も、バカにはできない。純文学は読んでも面白くないから大衆小説を読むし、クラシック音楽はBGMにすることはあれど好きな音楽として挙げることはない。美術なんて何もわからない。ハイカルチャーにしてもポップカルチャーにしても目的は娯楽であり、満足を得られれば社交のきっかけになればそれでいいのではないだろうか。なぜ知的かどうか、伝統があるかどうかなどの価値基準を持ち込む必要があるのだろうか。

 

2.  テンプレート

エンタメにはテンプレ(あるある)がつきものだ。評価された名作を真似る後続が蔓延することでテンプレはできていく。

NHK朝ドラは女性主人公で幼少期が描かれ、必ず結婚し、必ず子育てをし、必ず温かい家庭生活を送る。朝ドラを見る主婦はそういった予定調和を求めている。『家政婦のミタ』で大ヒットを飛ばした脚本家が『純と愛』なる雰囲気の暗い朝ドラを書いた時、朝ドラテンプレに合わなさすぎて平成最低視聴率を叩き出した。

フジの月9は少女漫画原作のような女子高生や女子大生が好みそうな恋愛中心の人生送ってますみたいなのが流される。時代劇なんて全部同じにしか見えない。韓国ドラマは宮廷で女性がドロドロに巻き込まれてるか現代もので恋をして病気になるか留学行くかして別れるのだ。ケータイ小説もすぐに元彼が不治の病で死ぬ。

ジャンプの少年漫画は「友情」「努力」「勝利」の通り、弱かった主人公が修行や冒険を通じて最強になる。仲間はみんな人を疑わない素直な善良な人だし、悪役は現実のように自分なりの正義を持っていたりするわけではなく誰から見ても「悪」な振る舞いをする絶対悪として描かれる。あと少年漫画はパンチラをする。それが青年漫画になるとエログロになる。デスゲームものやタイムリープもの、異能力バトルものは溢れすぎだ。

ラノベでは主人公が俺TUEEEしてみんなからよいしょされてハーレム築く。最近ではなろう系も増えてトラックに轢かれて異世界転生ばっかりしている。海外ファンにまで揶揄される始末だ。とりあえず悪役をいつも宗教団体にするのはやめてほしい。

 

ハルヒけいおん、ユーフォといった系譜の学園萌え日常アニメはキャラや音楽で売って行くし、エヴァ以後のセカイ系はくよくよ悩んでいた主人公の内面が変わるだけで世界の命運を変えてしまう。「僕」と「世界」しかないのか。

 

最近は割と洋画も見るようになった。アメリカ人が地球の危機を救うか、アメリカ人が難事件を解決するか、アメリカ人がカーアクションをして銃をぶっ放すか、アメリカ人が酒とセックスをキメるか、アメリカ人がベタベタな恋愛をするか。思えば日本の恋愛ドラマは大抵最終回かその前で破局し新たな一歩で終わるものが多い。視聴後に幸せになれるものをもっと増やしてもいいと思う。

 

ラノベなどを除く)小説は市場におけるテンプレ作品の割合が比較的小さいように思う。かなり独創的に設定を作り込まれている。何が違うのだろう。作家の我が強いのだろうか。ある程度新規性がないと編集者からgoが出ないのか。

 

テンプレが悪いとは言わない。テンプレ作品であれば安心できる。この朝ドラは、この時代劇は、予定調和で大団円に向かって行くなと分かって安心してみることができる。制作側も、それに乗ることである程度の数字が取れて採算がとれる保証が得られるようなものだ。

自分でweb小説を書こうとしたことが何度かあるが、完全に独創的な作品を作るのは困難を極める。どうしても自分が過去に好きだった作品の影響を受けてしまうし、どうにも既視感のあるキャラクター、既視感のある設定、既視感のあるストーリーをどこかで入れ込んでしまう。

ただ、テンプレ作品はあまり視聴者・読者の地平線を広げてはくれない。見たことのないものを見たい気持ちが少しはあるので、できる限り新規性のあるものの方を好ましいと感じる。

 

 

3.  名作

名作とは何か。難しい。売上額、興行収入が多い作品はなんなのか、クオリティの高さも重要な要素だが、ターゲットの幅広さ、射程、どれだけ多くの層を取り込めるかがもう一つ大きな要素になると思う。クオリティとしてあまり高くなく、しょーもない作品だとしても老若男女楽しめれば一部のマニアに大受けする作品より売り上げは大きくなる。

ハリーポッター』を考えてみよう。私はマニアといっていいほどハリーポッター漬けの幼少期を送ったし、今でも大ファンであるが、あの作品は背後に示唆に富んだ主張のある知的に文化的に"優れた”作品だ、なんてことは断じてない。ローリングが電車の中で適当に思いついて適当に書いた作品だ(褒めてる)。社会現象になった最大の原因はターゲット層の広さにあるだろう。魔法やファンタジーが好きな子供はもちろん、アクションが好きな人も、可愛らしさや人間模様のエモに惹かれる人も取り込めた。

評価の高低は、評価者の属性にも大きく影響される。アニメの評価サイトを見ていると、日常系や頭を使わない作品が軒並み高評価で、私がよく見るような込み入った作品はあまり評価が高くなかったりする。filmarksなんかの映画の評価は、おそらく利用者のマジョリティが洋画好き女子に偏っているので日本アニメ映画の評価が不当に低く感じることが多い。

エモを感じる作品を名作とする人もいる。泣けた作品を名作とする人もいる。売れた作品を名作とする人もいる。映画音楽やアニソンといった音楽面、演技面、アニメだと作画を重視する人なんかもいる。私にとっての名作は、「その作品がどれだけ私に影響を与えたか、どれだけ新たな視座を与えてくれたか」と言えるかもしれない。

評価といえば、作品自体や、その先行作品群についての深い知識を前提とした評論なんかがよくある。そういう"通”が評価すれば名作かというと、そうでもないと思う。

結局は個々人がその時点の感性でどう感じるかだ。当たり前の結論ではあるけれど。15歳の頃好きだった作品に今では低い評価をすることはままあるし、歳をとって真価がわかる作品なんてのもたくさんあるだろう。15歳の自分が名作だと感じた作品について30歳の自分が駄作だと思うようになったとしても、15歳の自分にとって確かに名作であったという事実は無くならない。

サイトなどで高評価されてみんなに褒めちぎられてるけど自分には全然刺さらなかった、なんて体験は誰しもあると思う。私の場合は、アニメだと『シュタゲ』『まどマギ』『ハルヒ』など、映画だと『天気の子』『カメラを止めるな!』『インターステラー』などでこの経験をした。こういう時、正直「自分の感覚がおかしいんじゃないか」と不安になったりする。ただ、評価サイトの点数の高さは、自分に刺さる確率が高いだけとも言える。刺さらない確率も一定程度ある。評価が高い作品に自分も高く評価することも多くあるだろう。名作かどうかは自分の評価なので、他人の評価は作品を選ぶ際の参考程度にしたい。

 

4.  歌は世につれ、世は歌につれ

高2のころ、卒業論文をかくという必修授業があった。空想科学読本のようなことをしている人もいたし、建築について優れた研究をしている人もいたし、ファッションの研究をしている女子なんかもいた。「独裁が世界史上でいかに優れていたか」等の高校生にしては本格的な研究をしている人もいた。私はというと、誰が何の研究をしたか貼り出されるので、ガチ学術研究をすると恥ずかしいなどと思って「戦後流行歌と社会の変遷」みたいな研究をした気がする。「歌は世につれ世は歌につれ」というが、本当に「世は歌につれ」るのかを、時代ごとに売れたJ-POPの歌詞のテキストマイニングを通じて好まれたものの傾向と時代背景との関連を調べる、みたいなことをした。ベトナム戦争の頃は反戦の気風が広がってロックやカウンターカルチャー的な反骨的なものが増えたみたいな適当なことを書いた気がする。社会学とは導きたい結論に導くための証拠を集めてこじつけるものなんだな、と誤った印象をその時抱いてしまった。もっと刑事政策や法哲学のかっちりしたものをやれば法学部推薦入試等にも使えただろうに。

音楽はもちろんだが、ドラマや小説、映画の現実世界に与える影響はとても大きい。お見合い結婚が当たり前だった時代から自由恋愛の時代にシフトしたのは明らかにエンタメで自由恋愛が推奨され続け、みんながそれに憧れ、自分でもその物語を体現しようと思った人が多いからだろう。ロマンティック・ラブ・イデオロギーというやつだ。

時代の変化で、否応無く作品の方も変化していく。

近年ではPC(ポリコレ)が重要視される。海外ドラマには必ず白人と黒人が出演し、障害者やセクシャルマイノリティも主要人物に加えられたりする。諸々の運動が広がり、差別や抑圧に厳しい目が向けられるようになったためだ。日本でも、2019年頭に『ちょうどいいブスのススメ』にルッキズムの強化などと批判が殺到したのが記憶に新しい。

昔はもっと"おおらか”だった、とはテレビでよく言われる。上半身裸の女性も平気でテレビに出ていたし、今では放送禁止用語になっている差別表現なんか無数に使われていた。それを古き良きと呼ぶか、前時代的と呼ぶかは自由だが、窮屈になって失われたものもある一方で減らされた不幸もあるのだろう。

AIやシンギュラリティが取りざたされるようになってから、そういう近未来SFも増えた。逆にSFの影響を受けてか、「汎用AIが人間に加害行為に及ぶようにならないか」なんて大真面目に議論している人もいたりする。

余談だが、「こういう潮流だからこういう作品が〜」とお気持ち表明するのは私もするし何も思わないが、「こういう精神性が透けて見えるこの作品を好むような人は〜」みたいな言説には強い反感を覚える。ある作品を好む人といっても、その作品のストーリーが好きな人、演出が好きな人、音楽が好きな人、様々である。テキストやストーリーを分析すれば学問っぽい俎上に乗せやすいのは確かだが、精神性もへったくれもなく何も考えずエンタメを楽しむ人もいるはずだ。趣向から個人の人格を推して測るのは難しいものだ。

 

5.  現実とフィクションの境目

ロマンティック・ラブ・イデオロギーの話でも取り上げたが、現実とフィクションの境目は曖昧だ。宗教とは、フィクションで現実を物語り、無意味で目的のない生に目的や死後への希望を与えたものだ。理由を理解しにくい社会規範に「神がこう言ったから」と 理由あるルールを与えたのだ。堀江貴文や落合陽一のような"意識高い系”が好むイデオローグも、上野千鶴子のようなフェミニズム界隈のイデオローグも、界隈に物語を与えている。

宗教は音楽をかけて香を焚いて陶酔させて人を物語に引き込んでいく。映画もドラマも音楽で人を引き込む。聴覚と嗅覚を満たせば人間は物語に没頭できる。現実で恋愛するときも、プロポーズなりセックスなり物語をやりたい時はムードのいい音楽とアロマとともにやったほうがいい。

文章とは紙とインクで作った記号の羅列であり、音楽とは空気の振動であり、映像が映し出される画面は液晶に光の組み合わせが映し出されているだけだ。人間はタンパク質でできた集合、原子でできた物質でしかないし、感情も記憶も思考も物質的に説明できる神経伝達の産物だ。

それらに意味を与え、解釈し、物語として志向性を与え、渇望し欲望して活動していくのが人間だと私は思う。

現実で自分を主人公とした物語にドリブンしてもいいし、現実を適当にやりながらいろんな物語にドリブンしてもいい。人生を楽しむ秘訣は物語を楽しむことだ。