ぴたぱんの備忘録

物語と人が好き。本とか映画とかドラマとかゲーム実況とか漫画とかアニメとか。触れた直後の想いを残しときます。

ごめん、同窓会には行けません。いま、レバノンにいます。

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出典:NHK news web https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191231/k10012232821000.html

英単語

rampant:横行する、はびこる rig:不正手段で操る flagrant:目に余る

(weblioによるとrampant, flagrantは英検一級以上、rigは(船の)索具を装備する、(服を)着せる、装うなどの意味は英検準一級レベルだそうです、rigはまあ覚えといて損はない)

 

"I have not fled justice -- I have escaped injustice and political persecution."

「映画みたいな事件だ」「Ghosn is gone!!」「Mr. Bean is innocent!」などの声が日本でも海外でも多く聞かれますが、「不正な法制度,刑罰からは逃げていいのか」これは古代ギリシアから続く法哲学上の極めて大きな問題なので試験勉強がてら軽く法哲学の議論を紹介します。合わせて、日本の刑事司法制度が批判される点についてまとめましょう。(これはあまり詳しくありませんので適当に書きます)

 

 

 Twitterの弁護士さんの反応

 ロイター通信、ワシントンポストブルームバーグなどの国際的大手メディアが日本の刑事司法制度が後進国であるという内容を今回の報道とともにしているようです。

 ツイート引用した法律のプロたちにこの記事見つかって叩かれたら怖いな…法学部生ではありますが実定法専攻ではありませんので誤り・不勉強な点はご容赦願いたいです。

 

 

日本の刑事司法制度の問題点

国際的非難→有罪率99%以上、死刑存置代用監獄(起訴前拘禁)、自白強要、弁護士立会いのない取り調べ etc.(詳しくは不勉強のため知りません)

興味のある方は日弁連の「国連拷問禁止委員会は日本政府に何を求めたのか」

https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/kokusai/humanrights_library/treaty/data/UNC_against_torture_pam.pdf などをご参照ください

国内からの非難→上のツイートを借りると、黙秘権の無視、身柄拘束と接見禁止の長期化etc.

 

今回の報道の海外におけるニュース動画のyoutubeコメントなどを見ていると、conviction rate 有罪率の高さを挙げて日本は後進的な刑事司法制度だとしているものが目立ったようです。これに関しては、「システムが海外と違うから一概に比較できない」というのが正直なところです。

miurayoshitaka.hatenablog.com

ご存知の方も多いかもしれませんが、この"有罪率99%以上"は「疑われた人が99%以上有罪になる」訳ではありません。捜査→起訴→裁判となる訳ですが、日本は検察官が有罪だと確証がある場合しか起訴しないという慣例があり、不起訴率が他国より高い60%以上となっています。検察官送致された被疑者のうち最終的に有罪になる割合は諸外国より低いくらいです。しかし、これが一概にいいと言えるかは議論の余地があります。メリットデメリットがありますが、これについては話せば長くなるので興味のある方は調べてみてください。兎に角、背景事情を知らずに有罪率99%以上→日本では被疑者の人権が守られていない!と飛びつくのは早計だということを念押ししておきます。

この記事の本題ではないので深入りはしないでおきます。

 

 

悪法もまた法なり

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

 

 「悪法もまた法なり(悪法も法なり)」は日本独自の言葉だという説があります。ラテン語法諺"Dūra lēx sed lēx."が似て非なる意味だとかなんとか。少なくともソクラテスがこれを言ったという記録が残っている訳ではないようです。しかし、日本語の「悪法も法なり」が言われる意味のこと(不公正だと思われる法(判決)にも従う義務がある、個人の勝手で破られれば国家は転覆する)という趣旨のことをソクラテスが言ったと『クリトン』でプラトンは書いています。

青少年に悪しき教えをしたとして裁判にかけられ死刑になったソクラテス(この裁判の弁論で有名な「無知の知」が出てきます)が死刑執行直前にクリトンから逃げようと誘われても逃げなかったこと、それはこの悪法に従う義務の他にも要因はあったようです。史実の正しさに拘ってもキリがないのでここではよく言われるようにソクラテスが言ったとしましょう。

ちなみに、アリストテレスアテネ市民によって訴訟されそうになった時、アリストテレスは「アテネの人々に再び哲学に対する過ちを犯させたくない」と言い残して逃げていったらしいです。個人合理的ですね。

 

史実はどうでもいいのですが、

「悪法は法なのか?」を少しこの章で考えていきます。

 

ゴーン氏が「日本の司法は不正義だ!」といって日本よりズブズブな司法制度のレバノンに行っていることからゴーン氏が刑事手続後進国からの司法亡命者であるという主張は語るに落ちています。(レバノン生まれということもあるでしょうがブラジル育ちのようですし)ただ、いい機会なのでここから「法の規範性(悪法は法なのか)」「遵法義務」と言ったことについて法哲学の授業・教科書の内容を簡単にまとめて行きます。

 

法という企て

法という企て

 

 

 

強盗の脅迫と、暴力を備えた国家の法は何が違うのか?

先に引用したツイートに

 というものがありました。

法哲学において、「強盗の脅迫と国家の法はどのように違うのか?」「ナチ体制下の法は法なのか」という問題があります。ここでジョン・オースティンの主権者命令説の議論を取り上げたいと思います。マックスヴェーバー主権国家の定義を「暴力の独占」としました。カール・マルクスも国家を装置としました。警察権力のような暴力を背景にした主権者の命令として法を捉えると、それは強盗が脅迫してくるのと何が違うのか?法は国家という一定領域内における「最大最強の暴力団」の脅迫に過ぎないのではないか。

オースティンの理論は自然法学派に帰謬法(背理法)の形で利用されました。自然法学派は「悪法は法ではない」としましたが、

不正な法もまた法だ と仮定すると、結局強盗の脅迫と法律は同じだという不合理な結論が導かれる、したがって不正な法は法ではない Q.E.D. としたのです。 

法の概念 第3版 (ちくま学芸文庫)

法の概念 第3版 (ちくま学芸文庫)

 

H.L.A ハートはオースティンを強く批判しました。『法の概念』において第一次準則(人の行為に対する公的な支配)第二次準則(ルールの発生・変更・消滅の権限を付与する)を定義し、義務の第一次準則しかない世界は法秩序ではない、ルールの変更・同定・裁定に関する二次的ルールが必要だ。という第一次準則と第二次準則の結合としての法のモデルを提示し、威嚇命令モデルを克服し自然法論を退けようとしました。

ハートモデルに従えば、第二次準則を備えているためナチ体制下の法は悪法であってもハートの法概念は排除されません。ハートは第二次準則を備えていないため強盗の脅迫と法の区別に成功しているとしますが、井上教授は強盗の命令との峻別はできていないとします。暴力団のような反社会的勢力だって、ルールの変更等に関する二次的ルールが必要になることもあり、持つこともできるとします。

井上説は、「正義要求を持つものが法である」とします。正義を企てているものが法だというのです。

法は客観的に正義に適合しているか否かに関わりなく、正義に適合するものとして承認されることへの要求を内在させている。換言すれば、法は単に人々の行動を規制するだけでなく、かかる規制が正義の観点から正当化可能であるというという主張に論理的にコミットしている。もちろん「義賊」のように正義の実現者を自認する強盗もいるが、義賊的振る舞いは強盗という実践と偶然的・例外的に結合するに過ぎない。強盗が強盗であるためには義賊を気取る必要はない。しかし正義要求を持たない法、正義を気取ろうとさえしない法はもはや法ではない。

強盗は自己の要求のかかる正当化可能性をそもそも標榜していないからである。しかし、法においては、他者の要求や国家機関の決定に関する同様な反問は決して的外れではありえない。

 このように法を捉えることで、強盗の脅迫と国家の法を峻別することに成功していると井上教授は言います。

あのツイートの弁護士は誘拐犯の監禁と日本の法を区別できないと言っていたので主権者命令説の人なのでしょうか。

私は誘拐犯の監禁と日本の法は明確に区別できるものであり、類比の対象として適切ではないと考えます。

 

法の規範性・遵法義務

伝統的自然法論は不正な法は法ではないとしますが、H.L.A ハートのような(包含的)法実証主義者も、法と道徳の峻別についてハートと議論を繰り広げたドゥオーキンも、不正な法体制においても法的権利義務が発生するとします。

自然法と法実証主義

カトリック自然法は、法は神が創造した秩序だとして、近代自然法は人間本性に由来するものとして自然法なるものが存在するとし、自然法が実定法に授権するとしました。したがって、自然法学派では自然法に反する実定法は失効します。つまり、「悪法は法ではない」とされるのです。一方の法実証主義では自然法を認めず実定法と正義や善といった価値を切り離します。したがって「悪法も法なり」となります。注意すべきなのは、法実証主義者が悪法を容認している訳ではなく、多くの法実証主義者も悪法を批判しているという点です。近代国家が成立し、19世紀まで主だった自然法は廃れ、20世紀からは法実証主義が主流となっています。

ナチス法体制には従うべきなのか?

そんな法実証主義を主流とする動静も、戦後変化が見られます。他の哲学・心理学等にも大きな衝撃と変革をもたらしたナチスの問題です。かつて法実証主義者であったラートブルフは、ナチスの台頭でハイデルベルグ大学教授の地位を追われました。彼は立場を変え自然法の方に接近するようになります。「悪法も法なり」とした法実証主義ナチスを肯定することにつながったとしたのです。ナチス体制下の法は悪法であり法としての資格を失うとしました。これを自然法ルネッサンスと呼ぶようです。このラートブルフの見解を巡ってロン・L・フラーとハートは論争を繰り広げます。ハートは、ナチスの法もまた法であることに変わりはない。その上で従うことができないほど道徳的な問題が大きいとしました。一方で自然法思想に立脚するロン・フラーは「法内在道徳」を説き、法は道徳的要素を含んでいなければならないとしました。法の内在道徳が完全に無視されていた点でナチス法は法システムとはいえず、したがって市民に遵法義務はないのだとしました。

フラーとハートの議論は平行線を辿りましたが、「純一性としての法"law as integrity”」理論を唱えるドゥオーキン(ドウォーキン)(Dworkin)による法実証主義批判と法-道徳峻別問題のハートとドゥオーキンの論争など、法実証主義に対して盛んに批判がされるようになります。

 

私の立場

私個人としては、法実証主義に賛同する立場です。法に道徳という時間的にも空間的にも普遍性のないものを求めてはいけないと考えます。カニバリズムが当然の文化を持つ共同体であれば食人が行われていいはずですし、全員がマゾヒストの共同体があったならば殴る蹴るが合法になされていいはずです。ナチス法体制については、正式な手続きを取られていない立法が多く、短期間の限定的なものであるので”そもそもあんなものは法ではないので遵法義務はない”とする立場です。私がユダヤ人だったら一目散に亡命したでしょう。

近代国家には抵抗権があります。現行法が正しい法的手続きに基づいて制定された正統性のあるものならば、遵法義務が発生します。不満ならばまた正しい法的手続きに則って改正しなければなりません。主観的に悪法だと思っても従わなければならないだけではなく、客観的(国際的)に悪法だとされても従わなければなりません。

でもまあこれは優等生的回答というか、建前の話です。もし私がソクラテスアリストテレスのような状況になれば逃げの一手を打つでしょう。周囲から非難されようと。自分の自由より大事なものはない訳ですから。逃げるのが個人合理的なのは間違いありません。しかし、内心ではそう思っていたとしても、弁護士という立場で法を扱うことで生計を立てている立場で、かつ何万人もフォロワーがいて影響力の強い弁護士が遵法義務を蔑ろにするような発言をしているのが見られることは非常に残念でした。