ぴたぱんの備忘録

物語と人が好き。本とか映画とかドラマとかゲーム実況とか漫画とかアニメとか。触れた直後の想いを残しときます。

人を助けたがる病める人たち -アニメ「灰羽連盟」を観て-

 

灰羽連盟 Blu-ray BOX 〈期間限定生産〉

灰羽連盟 Blu-ray BOX 〈期間限定生産〉

  • 発売日: 2010/07/22
  • メディア: Blu-ray
 

 

灰羽連盟」というアニメ

作品とあらすじ

知る人ぞ知る名作90年代アニメ「serial experiments lain」のキャラクターデザインを手がけた安倍吉俊氏が原作・シリーズ構成・脚本を務めた作品。

lainが刺さる人には刺さる、隠れた名作鬱アニメという評判を聞いていたので一気見しました。13話なので見ようと思えばすぐに観られる分量。(日常回の3~5話を飛ばしたから実質10話だった)

羽が生え、頭上に輪をつけた、天使とも人ともとれるような姿の人々の共同生活が突如映し出され、主人公の少女が繭の中で目を覚ますところから物語は始まる。自分が前にいたところも、名前も思い出せない少女。ラッカと名付けられた少女は「灰羽」と呼ばれる羽の生えた人々との共同生活に戸惑いながらも慣れていくが、ある日事件が起こり少女は…

 

ネタバレと考察と感想

(以下ネタバレです、灰羽連盟を観たい方は次章まで飛ばしてください)

 クウという少女が旅立ったにも関わらず割り切って過ごす人々と、一人鬱々と悩むラッカ。ラッカは病み始め、周囲はラッカを腫れ物のように扱い始める。羽は黒くなり、自分の羽を自傷するラッカ。やがてラッカは自分の忘れていた夢を思い出す。屋上のドアを開ける音。ラッカは学校の屋上から飛び降り自殺したのであろうことが暗に示される。登場人物たちは繭で見た夢をもとに名づけられるが、ラッカは落下、レキは礫だ。羽を黒くする「罪憑き」のその二人は生前自殺したのであろう。ラッカは屋上からの落下死、レキは電車での轢死

 おそらくは死後であろうこの世界でもラッカとレキは鬱気質だ。みんなが割り切ることを割り切れず繊細に傷つき病んでいき周囲にあたり自傷をして自棄になっていくラッカ。人前では灰羽みんなの世話をし、物知りで優しいしっかりもののお姉さんだが、自傷的な煙草をやめず、自室で一人病んでいくレキ。

 この世界ではレキやラッカのような罪憑きは旅立ちができない。自殺したものは天国に行けないというキリスト教の世界観だ。新参のラッカと違って、レキは旅立てず周りに取り残されたまま何年も街に残る。物語中盤でラッカは自身の試練を乗り越え罪憑きではなくなるが、それにすら取り残された孤独を感じるレキ。

 ラストのネタバレ。自分が優しくしていたのは自分のためだ、誰でも良かったんだと自分を嫌うよう迫るレキに一度は「嘘だ…」と泣き崩れるラッカだったが、「それでもレキを信じたい」「わたしがレキを救う鳥になるんだ」と決意をし、タイムリミットを迎えようとするラッカがレキを救い、試練を乗り越えたレキが旅立ちを迎える。

  

 これは病んでいた人が最終的に乗り越え救済を得る物語だ。エヴァンゲリオンのアニメ版最終話で病んでいたシンジが周囲との壁の肯定、自分への肯定に気づき「おめでとう」と祝福されて物語が終わるのと同じ構造だ。自己否定の呪詛を自分にかけ続け、一人で悩み抱え込むのはラッカもレキもシンジも同じだ。

 

 これは、鬱の人による、鬱の人のための物語だと、わたしはそう感じた。

 万人にオススメできるものではない。このアニメが好きなんて人がいたらメンヘラだと思う。シンジに共感していた18.19の頃の僕なら賞賛していただろうが、シンジのような青少年、青少年期の自分をバカにするようになった今の自分には少し見るのが辛かった。ただ、そこそこの引っかき傷を自分の心につけてくれた作品だと思う。

人を助けたがる病める人たち

 この物語には、自身が病んでいるのに人前で気丈に振る舞い、人に優しく世話をし続けるレキという人物が出てくる。

 個人的な体験ベースだが、真面目で優しく鬱に悩まされているタイプの人で、人を助けようとする人、人を助けることで自身の存在意義にしようとする人がそこそこいる気がする。

 「私自身も学生時代鬱で悩まされていましたから」と僕に手を差し伸べ相談に乗ってくれた准教授、「院生時代鬱になっていたのでわかります」と寄り添ってくれたカウンセラー、「将来は精神に問題を抱えていた人の手助けがしたい」と言っていた同クラの精神病棟に入っていた子。SNSでよく見る自分自身も病んでいる精神科医

 そして僕自身結構そういうタイプだ。病んでいる人の相談によく乗るし、そういうひとに寄り添うボランティアなんかもしていたし、一時はそういう仕事に就こうともしていた。

 彼らは乗り越えたからその仕事をしているのか。乗り越えられていないけど自分のために人を助けているのか。それは果たして健全なのか。ミイラ取りがミイラになるどころか、最初からミイラだったものがミイラ取りをしているじゃないか。

 人に縋られるのは気持ちいい。頼られるのは気持ちいい。自己肯定しなくても自分の存在意義が感じられる。

 もちろん先述の僕を助けてくれたたくさんの素晴らしい大人たちを批判する意図はない。うつの人の気持ちがわかっていない、強者の理論を振りかざしてくるな、と感じるろくでもない精神科医にも会ってきた。気持ちをわかってくれる医療者、カウンセラーの方が数千倍いいに決まっている。

 ただ、それって健全な世界なのだろうかと、少しそう思うのだ。

最近のわたしの話

 恋に恋する中高生のように、2、3年前までの自分は鬱に鬱々としていたような気がする。抑うつの原因に、悩み事に、自身の内面に、集中して分析して悩んでさらに鬱が深まって。

 今はそれをしなくなった。完全に目をそらすようになった。自分の内面に病状に向きあう暇があったら趣味に時間を使っている。鬱々としたツイートを繰り返して自分も病んで周りにも闇を植え付けて心配させるよりは良いと思ってそうしているが、目をそらして気丈に明るく振舞って何も解決していないという現状は後退のような気もする。

 二週間前からあたらしい病院にかかって薬も頑張って飲んでいる。いい先生でいい病院なので継続的に通院・服薬ができるといいが、昨日まで3、4日かなり具合が悪かった。ゼミの初回の締め切りに過ぎたりリサーチペイパーの期限が迫ったりと学生生活もままなっていない。オンラインで授業を受けるのは前期に引き続き挫折し始めている。

 ええかっこしいをやめて親に周りに頼ればいいのに。どれだけ取り繕っても同期はみんな院進・就職して忙しそうにしている中ニートを続けているクソ野郎だ。恥も外聞もかなぐり捨てて教授に土下座して親に医者にまわりに迷惑かけてでも泣いて喚いて鼻水垂らしてでも卒業しなければならない。