ぴたぱんの備忘録

物語と人が好き。本とか映画とかドラマとかゲーム実況とか漫画とかアニメとか。触れた直後の想いを残しときます。

「言葉にしたくない」という感想 〜藤本タツキ『ルックバック』に寄せて〜

shonenjumpplus.com

チェンソーマン』『ファイアパンチ』などで知られる藤本タツキ氏の新作読み切り『ルックバック』が話題を呼んでいる。

本日2021年7月19日午前0時ごろに公開され、夜中にも関わらずtwitterなどで騒然とした。午前10時ごろにはTwitterトレンド1位となり、午後6時ごろに確認したときもトレンドトップ30には入っていた。2020年覇権といえるほど週刊少年ジャンプの『チェンソーマン』が人気を博したとはいえ、ネットで読める漫画のしかも読み切りがここまで話題になるというのは異例のことだ。

まだ読んでいない方は是非上記リンクから読んでほしい。少年ジャンプ+で期間限定(いつまでかはわからないが)無料公開中だ。(公開期間外に本記事を読んでいる方には申し訳ない)

少し長めの読み切りではあるが、一コマ一コマ丁寧に、文字だけでなく絵の細部の描写、ひとりひとりの表情、一枚一枚の新聞の記事から壁に貼ってあるものまで丁寧に見て、味わって、読んで欲しいと思う。

 

 

※以下、極力避けますが紹介するツイートなどで『ルックバック』のネタバレを含む場合があります。

 

読んでいただけただろうか。

 

読後の私の感想はーーー言葉にしたくない というのが正直なところだ

 

もちろん、言いたいことは色々ある。ネタバレにならない範囲で言えば

「圧倒的だった」「鳥肌が立った」「『チェンソーマン』や『妹の姉』より好きだった」……

「…の〜なシーンは〜」と詳細に語ろうと思えばできるのだが、それをしたくない。その言葉から漏れていくものが、その言葉で定着させてしまうことが作品を、読後の自分の感情、情動を矮小化して陳腐なものにさせやしないか、強い言葉で言えば冒涜になるのではないか、そんな思いを抱いた。

 

読んでみて、「自分には別にこの『ルックバック』刺さらなかったな」と思う読者の方もいるかもしれない。そういう方は最近自分がそういう「筆舌に尽くし難い情動」を抱いた経験を思い起こしてみてほしい。

私の場合、最近では『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見に行ってラストの「終」の字を見た瞬間だったり、ヨルシカの「春泥棒」のMVを見終わった瞬間だったり…

www.youtube.com

もちろん、シンエヴァは通常でも4DXでもIMAXでも見たし、パンフレットも買ったしネットやはてブの感想も考察も批評も無数に読んだ。1週間ほどシンエヴァのことしか考えていない期間もあった。春泥棒だって飽きるほど聞いて焼き切れるほどMVを見てコメント欄に連なるポエミーな感想の数々にも目を通した。それでも、ブログに感想を書くことはもちろん、感想ツイートもろくにしなかった。言葉にしたくなかったのだ。

自分で書いて言葉にするとなると先行作品群を踏まえた批評的な分析も、歌詞に含まれた言葉遊びを指摘するのも、自分の体験に引き寄せてポエムを書くのも、率直な感想を書くのも、全部"違う"のだ。

俗に言う「ボキャ貧😇」というのとも違う。(個人的には「ボキャ貧」と言われる文脈では語彙の多寡ではなく言語センス、言語運用能力のなさを嘆いてる場合が多いと思うので「言語能力貧😇」という方が近いのではと思うが)

たとえ自分に文豪の言語センスがあったとしてもこの感情を言葉に定着させたくない。

 

 

『ルックバック』にしてもそうだ。twitterにも、はてブコメントにも、肯定的なものも否定的なものも含めて、数多くの感想が溢れている。

「天才」「泣いた」という率直な賞賛もあれば、「信者が気持ち悪い」「過剰に評価されすぎだ」という厳しい意見もある。

藤本タツキ先生独特のカメラワークや文字よりも絵で魅せる技巧、途中で「ifの世界線」を入れた手法や、タイトルの『ルックバック』が漫画内の四コマ「背中を見て」であり、漫画内の服の背中に書かれたサインであり、過去を振り返るlook backであるということ、OasisのDon't  Look Back In Angerやその他私の詳しくない映画など他作品のオマージュについて言及しているものなど、テクニカルなところに言及してバズっているツイートも多い。

また特に目につくのが7月19日という、2019年7月18日の京都アニメーション放火事件から2年の日の翌日に公開されたこと、『ルックバック』作中の事件と京アニ事件の類似性や前述の「Don't Look Back In Anger」がテロ事件のアンセムとして有名なこと等から京アニ事件と結びつけた論評だ。

 

違うのだ。全部、違う。少なくとも私にとっては全部違うのだ。

読後に感じた作者の溢れる才気を「天才」なんて凡百に使われる言葉で形容していいのか。このクソデカ感情を「泣ける」なんてのっぺりした表現で表していいのか。

私が感動した核の部分は決して細かな技巧的なところではないし(もちろん読みながら表現に感嘆はするが)、この作品を京アニ事件をことさらに引き合いに出して社会派な捉え方をするのも違うのだ。

 

 RTの多いこの感想を見た時「えええええええええええ!?!?」と仰天した。もちろん「見せかけて」と言っているからツイ主は「百合のバクマン」と表現することが本旨ではないだろうが、私にとっては藤野と京本の関係性は決して「百合」という言葉で形容されるべき関係性ではないし、『ルックバック』の中の主人公たちと漫画との向き合い方は『バクマン。』とは月とスッポンというか、似て非なるものすぎて。あり得なかったのだ。『ルックバック』を表現するときに『百合のバクマン』なんて文字列が飛び出てくるのは。

 

 

 いや、わかる。この人の言いたいことは。「これは文学」「これは純文学」という褒め言葉には、(発した人に悪意はないだろうが)「純文学(文学)は高尚なもの、SF小説や漫画は低俗なもの」という価値規範が見え隠れしているし、なにより藤本タツキ作品は漫画の中でも特に小説ではできない「言葉によらない表現」を大事にしているのだから、「言語による作品」の最たるものである「文学」として褒めるのは違うのだ、と。

まあこの褒め言葉を言った人自身はそこまで考えていないと思われるので責めないで欲しい。

 

言葉として定着させるということは、(特にtwitterのような限られた文字数の中では)誤解を受けやすいし、「天才」にしても「純文学」にしてもその言葉を使って褒めた瞬間に書き手の抱いた情動がどんなものであっても読み手にとっては「天才」という文字列から受ける印象、「純文学」という文字列から受ける印象になってしまう。

言葉に対して誠実であろうとするなら、この記事を書きながらでも「ここは『矮小化』『陳腐』という言葉で適切なのか、この言葉を選択したときに捨象された部分はどうなるのか、もっとふさわしい表現はないのか」と逡巡してしまうのだ。

感情を言語化するということには良い面もあれば悪い面もある。もちろん、「私の考えていること察してよ」では決して人間関係はうまくいかないし、作品の感想を届けなければ作者としてはモチベーションにならないだろう。

朝井リョウ『何者』の「頭の中にあるうちは、いつだって、なんだって、傑作なんだよ」ではないが、絵は下手くそでも書き続けなければ上達しないし、仕事は完璧を求めず出来る限りのものを仕上げなければならないし、言語化も自分の知識語彙言語能力の範囲内で失敗を恐れず書いて喋って表に出していかなければ伝わらない。

 

ただ、それでも、私にはこの感情を言葉にしたくないなあと感じる作品が、瞬間が、間違いなくある。

言葉に自分の感情に作品に正直で誠実であろうとするなら、筆舌を尽くさないほうがいいときがあるのだ。

 

 

『ルックバック』はいいぞ