ぴたぱんの備忘録

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「言葉にしたくない」という感想 〜藤本タツキ『ルックバック』に寄せて〜

shonenjumpplus.com

チェンソーマン』『ファイアパンチ』などで知られる藤本タツキ氏の新作読み切り『ルックバック』が話題を呼んでいる。

本日2021年7月19日午前0時ごろに公開され、夜中にも関わらずtwitterなどで騒然とした。午前10時ごろにはTwitterトレンド1位となり、午後6時ごろに確認したときもトレンドトップ30には入っていた。2020年覇権といえるほど週刊少年ジャンプの『チェンソーマン』が人気を博したとはいえ、ネットで読める漫画のしかも読み切りがここまで話題になるというのは異例のことだ。

まだ読んでいない方は是非上記リンクから読んでほしい。少年ジャンプ+で期間限定(いつまでかはわからないが)無料公開中だ。(公開期間外に本記事を読んでいる方には申し訳ない)

少し長めの読み切りではあるが、一コマ一コマ丁寧に、文字だけでなく絵の細部の描写、ひとりひとりの表情、一枚一枚の新聞の記事から壁に貼ってあるものまで丁寧に見て、味わって、読んで欲しいと思う。

 

 

※以下、極力避けますが紹介するツイートなどで『ルックバック』のネタバレを含む場合があります。

 

読んでいただけただろうか。

 

読後の私の感想はーーー言葉にしたくない というのが正直なところだ

 

もちろん、言いたいことは色々ある。ネタバレにならない範囲で言えば

「圧倒的だった」「鳥肌が立った」「『チェンソーマン』や『妹の姉』より好きだった」……

「…の〜なシーンは〜」と詳細に語ろうと思えばできるのだが、それをしたくない。その言葉から漏れていくものが、その言葉で定着させてしまうことが作品を、読後の自分の感情、情動を矮小化して陳腐なものにさせやしないか、強い言葉で言えば冒涜になるのではないか、そんな思いを抱いた。

 

読んでみて、「自分には別にこの『ルックバック』刺さらなかったな」と思う読者の方もいるかもしれない。そういう方は最近自分がそういう「筆舌に尽くし難い情動」を抱いた経験を思い起こしてみてほしい。

私の場合、最近では『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見に行ってラストの「終」の字を見た瞬間だったり、ヨルシカの「春泥棒」のMVを見終わった瞬間だったり…

www.youtube.com

もちろん、シンエヴァは通常でも4DXでもIMAXでも見たし、パンフレットも買ったしネットやはてブの感想も考察も批評も無数に読んだ。1週間ほどシンエヴァのことしか考えていない期間もあった。春泥棒だって飽きるほど聞いて焼き切れるほどMVを見てコメント欄に連なるポエミーな感想の数々にも目を通した。それでも、ブログに感想を書くことはもちろん、感想ツイートもろくにしなかった。言葉にしたくなかったのだ。

自分で書いて言葉にするとなると先行作品群を踏まえた批評的な分析も、歌詞に含まれた言葉遊びを指摘するのも、自分の体験に引き寄せてポエムを書くのも、率直な感想を書くのも、全部"違う"のだ。

俗に言う「ボキャ貧😇」というのとも違う。(個人的には「ボキャ貧」と言われる文脈では語彙の多寡ではなく言語センス、言語運用能力のなさを嘆いてる場合が多いと思うので「言語能力貧😇」という方が近いのではと思うが)

たとえ自分に文豪の言語センスがあったとしてもこの感情を言葉に定着させたくない。

 

 

『ルックバック』にしてもそうだ。twitterにも、はてブコメントにも、肯定的なものも否定的なものも含めて、数多くの感想が溢れている。

「天才」「泣いた」という率直な賞賛もあれば、「信者が気持ち悪い」「過剰に評価されすぎだ」という厳しい意見もある。

藤本タツキ先生独特のカメラワークや文字よりも絵で魅せる技巧、途中で「ifの世界線」を入れた手法や、タイトルの『ルックバック』が漫画内の四コマ「背中を見て」であり、漫画内の服の背中に書かれたサインであり、過去を振り返るlook backであるということ、OasisのDon't  Look Back In Angerやその他私の詳しくない映画など他作品のオマージュについて言及しているものなど、テクニカルなところに言及してバズっているツイートも多い。

また特に目につくのが7月19日という、2019年7月18日の京都アニメーション放火事件から2年の日の翌日に公開されたこと、『ルックバック』作中の事件と京アニ事件の類似性や前述の「Don't Look Back In Anger」がテロ事件のアンセムとして有名なこと等から京アニ事件と結びつけた論評だ。

 

違うのだ。全部、違う。少なくとも私にとっては全部違うのだ。

読後に感じた作者の溢れる才気を「天才」なんて凡百に使われる言葉で形容していいのか。このクソデカ感情を「泣ける」なんてのっぺりした表現で表していいのか。

私が感動した核の部分は決して細かな技巧的なところではないし(もちろん読みながら表現に感嘆はするが)、この作品を京アニ事件をことさらに引き合いに出して社会派な捉え方をするのも違うのだ。

 

 RTの多いこの感想を見た時「えええええええええええ!?!?」と仰天した。もちろん「見せかけて」と言っているからツイ主は「百合のバクマン」と表現することが本旨ではないだろうが、私にとっては藤野と京本の関係性は決して「百合」という言葉で形容されるべき関係性ではないし、『ルックバック』の中の主人公たちと漫画との向き合い方は『バクマン。』とは月とスッポンというか、似て非なるものすぎて。あり得なかったのだ。『ルックバック』を表現するときに『百合のバクマン』なんて文字列が飛び出てくるのは。

 

 

 いや、わかる。この人の言いたいことは。「これは文学」「これは純文学」という褒め言葉には、(発した人に悪意はないだろうが)「純文学(文学)は高尚なもの、SF小説や漫画は低俗なもの」という価値規範が見え隠れしているし、なにより藤本タツキ作品は漫画の中でも特に小説ではできない「言葉によらない表現」を大事にしているのだから、「言語による作品」の最たるものである「文学」として褒めるのは違うのだ、と。

まあこの褒め言葉を言った人自身はそこまで考えていないと思われるので責めないで欲しい。

 

言葉として定着させるということは、(特にtwitterのような限られた文字数の中では)誤解を受けやすいし、「天才」にしても「純文学」にしてもその言葉を使って褒めた瞬間に書き手の抱いた情動がどんなものであっても読み手にとっては「天才」という文字列から受ける印象、「純文学」という文字列から受ける印象になってしまう。

言葉に対して誠実であろうとするなら、この記事を書きながらでも「ここは『矮小化』『陳腐』という言葉で適切なのか、この言葉を選択したときに捨象された部分はどうなるのか、もっとふさわしい表現はないのか」と逡巡してしまうのだ。

感情を言語化するということには良い面もあれば悪い面もある。もちろん、「私の考えていること察してよ」では決して人間関係はうまくいかないし、作品の感想を届けなければ作者としてはモチベーションにならないだろう。

朝井リョウ『何者』の「頭の中にあるうちは、いつだって、なんだって、傑作なんだよ」ではないが、絵は下手くそでも書き続けなければ上達しないし、仕事は完璧を求めず出来る限りのものを仕上げなければならないし、言語化も自分の知識語彙言語能力の範囲内で失敗を恐れず書いて喋って表に出していかなければ伝わらない。

 

ただ、それでも、私にはこの感情を言葉にしたくないなあと感じる作品が、瞬間が、間違いなくある。

言葉に自分の感情に作品に正直で誠実であろうとするなら、筆舌を尽くさないほうがいいときがあるのだ。

 

 

『ルックバック』はいいぞ

 

 

 

 

GWなのでなんの動物の肉まで食べられるか考えています

※注意:この記事には動物への愛情が深い方にはショッキングな描写が含まれる可能性があります。閲覧は自己責任でお願いいたします。読者の方が気分を害された場合、責任を負いかねますので御注意ください。

 

2年ほど前に見たこんなツイートをさっき思い出した(おぼろげな記憶を頼りにtwitterの海から20分ほどかけて掘り返した)

 

この記事を開いた読者の方も是非考えてみてほしい。

 

ウマ娘なるアニメとアプリが流行っている

その関係で、昔から度々聞いていた「競馬好きや馬主に馬肉や馬刺し云々の話はNG」なる界隈ルールのようなものがあるのに昨日久々に触れた(それでキレている人をネット上で多数目撃した) モヤっとした

馬刺しを愛する一介の熊本県民である自分にとって馬は乗るものでも走るのを見るものでも愛でるものでもなく食べるものだもの 大勢にとっての牛や豚や鶏がそうであるように

その関連で「水族館で『この魚美味そうだな』と言っている人がいたら頭おかしいのかと思うだろ」みたいなコメントも見た もっとモヤっとした 

 

ほとんどの人が、それこそ小学生の道徳で屠殺なんかを扱った頃から、動物を食べることって何だろうみたいなことは考えたことがあると思う

生命倫理の議論が好きな人なら、中学生くらいの頃に「動物実験でマウスとか殺すのって許されるのか?」「ペットとか動物園って人間のエゴじゃないのか?」「菜食主義って無駄じゃないのか?」「捕鯨にキレてる人たちってなんなんだ?」みたいななんの飯の足しにもならないようなことを考えたことがあるかもしれない

残念ながら私は小中学生でそういったことを考えるのをやめることなく一生考え続けるタイプの人間である 少なくとも23の現在まだ"そういうの”を卒業していない

 

 

ところで先ほどのツイートの食べても倫理的に許される順番は決まっただろうか。(ちなみにツイート主はここに「人語を解するカニ」も加えたかったらしい)

 

 

当該ツイートへの引用RTでついているコメントでは胎児や宇宙人、デザイナーベイビー、子猫などが後の方に、つまり「食べても許されない」ものとして置いている人が多いようだった(詳しくは読者の方が自分でツイートから飛んでコメントを確認してほしい 色々な意見がある)

許されなさ、倫理、アニマルライツはどこに発生するのか、何に依存するのかの代表的な論点がこのツイートには含まれている

 

つまり

・人と近ければ食べることが許されないのか

・知能が高ければ食べることが許されないのか

・日本法では人権のない(堕ろすなどしても罪に問われない)胎児はどうなのか

・人であるかどうかは遺伝子によって規定されるのか

・動物愛護や動物の権利は愛玩と強く結びつくのか、犬猫を食べることは家畜を食べることよりも悪なのか

・倫理の逸脱とは、外形的、習慣的なものからの逸脱なのか 明確な基準があって逸脱を決定されるものなのか

などの点である

 

個人的には、

・痛覚のない動物を殺すのは許されるのか

・反復継続的、社会慣習的に食べると許されるのか

などの点も含んだ選択肢も作って欲しかった 

以前クラゲに電極ぶっさす実験についての記事に「可哀想」という意見がついてるのを見て「クラゲに脳も痛覚もないけど、この『可哀想』っていうのは愛玩からくる感情なのか?動物の権利は人間の愛玩感情から発生するのか?」なんて思ったことがある(口に出すとヤバイ人だと思われるから人前では言わないが)

菜食主義についての議論でよく聞かれる「動物を食べるのはだめだが植物を食べるのは許される」理由としてしばしば挙げられるのが知能、とりわけ痛覚の有無だ 苦痛を与えるのは悪 苦痛を与えずに命を奪うのは許されるという倫理観だ

前述の小学校の屠殺の道徳の授業でも、「苦痛を与えずに済むように銃で一発で殺します」と説明されて幼心に「は?」と思った記憶がある 

そんなことを言われると、「全身麻酔で感覚も意識もない牛や豚なら食べるのを許されるのか?」なんて思ってしまう  動物が受ける苦痛の問題ではなくて人間が受ける良心の呵責や共感性からくる人間自身の苦痛を減らしたいのではないのか

 

誤解を受けないように言っておくと私個人は、人間は食のみならずあらゆる面で人間中心主義的に他の生物に関わっているため、今更他の動物の権利の保護などいうのは矛盾でしかない、アニマルライツは認めない 権利がないのだから動物を食べることも動物実験も悪になり得ない という立場だ

ただ、ドキュメンタリーなどで猿やペットの犬が食用にされている海外の映像を見るとそれなりにショックを受ける それくらいの人の心はある

しかし一方で、牛や豚が食用にされても心はさほど痛まない 反復継続的・社会慣習的に行われていれば猿が食用にされていても心は痛まないのかもしれない 人間の倫理や心なんてそんなあやふやなものだ

 

最初のツイートに挙げられているものを私が並べるなら、(ここでは私個人が許すかどうかではなく社会的に許されるかどうかという問いだと解釈している)

許される順に

①ヒト遺伝子が組み込まれた豚②ヒト細胞でできた培養肉③知能を低下させたイルカ④人語を解するサル⑤子猫⑥対話可能な宇宙人⑦デザイナーベイビー⑧胎児

となる。(人語を解するカニを含めるなら①と②の間)

理由は、生命倫理において重要なのは遺伝情報などの本質的なヒトとの近さではなく、従来の社会慣習からどれだけ逸脱しているか、外形的にどれだけ普段食用のものと近いか、だと考えるからだ

 

個人的には全部食いたくない

 

 

結局、このツイートに対する反応ですら分かれているように、生命倫理の議論やディスカッションが紛糾するように、合意が取れにくい分野なのだ

これはよくてこれはダメというラインの個人差が大きすぎて合意が形成できない

おそらく生命倫理は大いに個人の動物に対する愛着に影響される

馬が好きなら馬が食肉にされる話は気分を害するし、クラゲが好きならクラゲが電極ぶっ刺されてれば可哀想に思うのだ ゴキブリが好きな人はゴキブリが軽卒に潰されて心を痛めているかもしれない 細菌が好きな人は日々無数に殺されていく菌に心を痛めているのだろうか

犬猫が美味しければ犬猫を食べるという人だっている

人間の肉がもし信じられないほど美味だったなら、世界は、倫理は、どうなっていただろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人を助けたがる病める人たち -アニメ「灰羽連盟」を観て-

 

灰羽連盟 Blu-ray BOX 〈期間限定生産〉

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  • 発売日: 2010/07/22
  • メディア: Blu-ray
 

 

灰羽連盟」というアニメ

作品とあらすじ

知る人ぞ知る名作90年代アニメ「serial experiments lain」のキャラクターデザインを手がけた安倍吉俊氏が原作・シリーズ構成・脚本を務めた作品。

lainが刺さる人には刺さる、隠れた名作鬱アニメという評判を聞いていたので一気見しました。13話なので見ようと思えばすぐに観られる分量。(日常回の3~5話を飛ばしたから実質10話だった)

羽が生え、頭上に輪をつけた、天使とも人ともとれるような姿の人々の共同生活が突如映し出され、主人公の少女が繭の中で目を覚ますところから物語は始まる。自分が前にいたところも、名前も思い出せない少女。ラッカと名付けられた少女は「灰羽」と呼ばれる羽の生えた人々との共同生活に戸惑いながらも慣れていくが、ある日事件が起こり少女は…

 

ネタバレと考察と感想

(以下ネタバレです、灰羽連盟を観たい方は次章まで飛ばしてください)

 クウという少女が旅立ったにも関わらず割り切って過ごす人々と、一人鬱々と悩むラッカ。ラッカは病み始め、周囲はラッカを腫れ物のように扱い始める。羽は黒くなり、自分の羽を自傷するラッカ。やがてラッカは自分の忘れていた夢を思い出す。屋上のドアを開ける音。ラッカは学校の屋上から飛び降り自殺したのであろうことが暗に示される。登場人物たちは繭で見た夢をもとに名づけられるが、ラッカは落下、レキは礫だ。羽を黒くする「罪憑き」のその二人は生前自殺したのであろう。ラッカは屋上からの落下死、レキは電車での轢死

 おそらくは死後であろうこの世界でもラッカとレキは鬱気質だ。みんなが割り切ることを割り切れず繊細に傷つき病んでいき周囲にあたり自傷をして自棄になっていくラッカ。人前では灰羽みんなの世話をし、物知りで優しいしっかりもののお姉さんだが、自傷的な煙草をやめず、自室で一人病んでいくレキ。

 この世界ではレキやラッカのような罪憑きは旅立ちができない。自殺したものは天国に行けないというキリスト教の世界観だ。新参のラッカと違って、レキは旅立てず周りに取り残されたまま何年も街に残る。物語中盤でラッカは自身の試練を乗り越え罪憑きではなくなるが、それにすら取り残された孤独を感じるレキ。

 ラストのネタバレ。自分が優しくしていたのは自分のためだ、誰でも良かったんだと自分を嫌うよう迫るレキに一度は「嘘だ…」と泣き崩れるラッカだったが、「それでもレキを信じたい」「わたしがレキを救う鳥になるんだ」と決意をし、タイムリミットを迎えようとするラッカがレキを救い、試練を乗り越えたレキが旅立ちを迎える。

  

 これは病んでいた人が最終的に乗り越え救済を得る物語だ。エヴァンゲリオンのアニメ版最終話で病んでいたシンジが周囲との壁の肯定、自分への肯定に気づき「おめでとう」と祝福されて物語が終わるのと同じ構造だ。自己否定の呪詛を自分にかけ続け、一人で悩み抱え込むのはラッカもレキもシンジも同じだ。

 

 これは、鬱の人による、鬱の人のための物語だと、わたしはそう感じた。

 万人にオススメできるものではない。このアニメが好きなんて人がいたらメンヘラだと思う。シンジに共感していた18.19の頃の僕なら賞賛していただろうが、シンジのような青少年、青少年期の自分をバカにするようになった今の自分には少し見るのが辛かった。ただ、そこそこの引っかき傷を自分の心につけてくれた作品だと思う。

人を助けたがる病める人たち

 この物語には、自身が病んでいるのに人前で気丈に振る舞い、人に優しく世話をし続けるレキという人物が出てくる。

 個人的な体験ベースだが、真面目で優しく鬱に悩まされているタイプの人で、人を助けようとする人、人を助けることで自身の存在意義にしようとする人がそこそこいる気がする。

 「私自身も学生時代鬱で悩まされていましたから」と僕に手を差し伸べ相談に乗ってくれた准教授、「院生時代鬱になっていたのでわかります」と寄り添ってくれたカウンセラー、「将来は精神に問題を抱えていた人の手助けがしたい」と言っていた同クラの精神病棟に入っていた子。SNSでよく見る自分自身も病んでいる精神科医

 そして僕自身結構そういうタイプだ。病んでいる人の相談によく乗るし、そういうひとに寄り添うボランティアなんかもしていたし、一時はそういう仕事に就こうともしていた。

 彼らは乗り越えたからその仕事をしているのか。乗り越えられていないけど自分のために人を助けているのか。それは果たして健全なのか。ミイラ取りがミイラになるどころか、最初からミイラだったものがミイラ取りをしているじゃないか。

 人に縋られるのは気持ちいい。頼られるのは気持ちいい。自己肯定しなくても自分の存在意義が感じられる。

 もちろん先述の僕を助けてくれたたくさんの素晴らしい大人たちを批判する意図はない。うつの人の気持ちがわかっていない、強者の理論を振りかざしてくるな、と感じるろくでもない精神科医にも会ってきた。気持ちをわかってくれる医療者、カウンセラーの方が数千倍いいに決まっている。

 ただ、それって健全な世界なのだろうかと、少しそう思うのだ。

最近のわたしの話

 恋に恋する中高生のように、2、3年前までの自分は鬱に鬱々としていたような気がする。抑うつの原因に、悩み事に、自身の内面に、集中して分析して悩んでさらに鬱が深まって。

 今はそれをしなくなった。完全に目をそらすようになった。自分の内面に病状に向きあう暇があったら趣味に時間を使っている。鬱々としたツイートを繰り返して自分も病んで周りにも闇を植え付けて心配させるよりは良いと思ってそうしているが、目をそらして気丈に明るく振舞って何も解決していないという現状は後退のような気もする。

 二週間前からあたらしい病院にかかって薬も頑張って飲んでいる。いい先生でいい病院なので継続的に通院・服薬ができるといいが、昨日まで3、4日かなり具合が悪かった。ゼミの初回の締め切りに過ぎたりリサーチペイパーの期限が迫ったりと学生生活もままなっていない。オンラインで授業を受けるのは前期に引き続き挫折し始めている。

 ええかっこしいをやめて親に周りに頼ればいいのに。どれだけ取り繕っても同期はみんな院進・就職して忙しそうにしている中ニートを続けているクソ野郎だ。恥も外聞もかなぐり捨てて教授に土下座して親に医者にまわりに迷惑かけてでも泣いて喚いて鼻水垂らしてでも卒業しなければならない。

飽きた

インドア派なので、「一人で家にいると退屈じゃない?」と言っている人は家で過ごせる娯楽を探すのが下手なだけだと思っていた 自分は家で楽しく過ごすのが得意な方だと思っていた 最近暇つぶしに困ることが増えてきた

 

テレビに飽きた

3~4年前からテレビがつまらなくなった 高校生までは日常の娯楽の半分はテレビ、友人との話題の半分はテレビ、家族団欒にもテレビのテレビっ子だったのに 予算のかからないクイズや同じ企画を繰り返すバラエティ ドラマも『アンナチュラル』『獣になれない私たち』以降何も見ていない気がする

youtubeに飽きた

元々民度の低いうるさいだけのyoutuberが嫌いで、穏やかなゲーム実況者やquiznknockなんかを見ていた quizknock、登録者5万人くらいの頃から見ていたのに2020年に入ったあたりからネタ切れを感じてもうめっきり見なくなってしまった 2年くらい追っかけをしていた実況者三人称も喋りもネタもマンネリだなと思ってあまり見なくなった

ゲームに飽きた

ゲーム禁止の家庭で育ったため、反動で高校生くらいからスマホゲーを狂ったようにやっていた 大学からはsteamを中心としてPCゲーもそこそこやった 一昨年休学していた時もほぼ半年間ソシャゲとマイクラだけやってたようなものだった steamの名作タイトルはほぼやり尽くした感がある Play Stationなどのコンシューマゲームは一人暮らしをするまでできないしその頃には社会人だからやらないだろう

漫画アニメに飽きた

ここ5・6年のメインの趣味だったといえる 何百タイトルと触れるうちに、限界効用が逓減しているというか、新しく発掘する中で良い漫画アニメだと思うものの数がめっきり減ってしまった なんだかんだ名作どころを総なめしていった最初の1・2年が一番充実していたのだ 「あーまたこのタイプね」「またこういうキャラか」みたいな冷めた反応になってしまうことが増えた そもそも精神年齢的に合わない作品が増えた SAOやリゼロを目を輝かせて見ていた高校生時代に戻りたい

Vtuberに飽きた

ここ1年間くらいのメインの趣味はにじさんじだった シロや夜桜たまを見ていた頃から合わせれば3年近くvのオタクをやっていた もうめっきりにじで面白い企画がなくなってしまった ホロライブが全盛期なのはわかっているが、肌に合わない 推し数人の配信だけたまにチェックしてもうあとは見ないようにしようと思う

ボドゲに飽きた

麻雀も最近あまりしていない 原理的に上手くても4割は負けるゲームで、しかも上達への道のりは長い 努力に対して得られる効用が釣り合わない 牌効率さえそこそこちゃんとやれば勝てるみたいな卓にいたころが一番努力と上達を感じて楽しかった RPGとかで地味なレベリングしないと強敵に勝てないなら投げてしまうタイプだ 一週間くらい前まではポーカーや花札に手を出してみたもののある程度ルールや定石を把握したあとは長続きしなかった

 

大人の趣味を嗜めない

中学までのメインの趣味は小説だったはずだ 家の本棚から本が溢れかえって本を買いたくなくなっているのもあるが、最近小説をめっきり読めなくなった 長時間活字を追うのが辛い web小説すらも有名どころを一通り押さえてからは読まなくなった なんなら難しいことを考えるのもつらくなってきた 古典を読むのも最近できていない

洋画を2時間見るのもつらい なんで世の健常な大学生のみなさんはあんなに洋画を趣味としていらっしゃるのだろう 200作くらいしか見たことないけど、名作って言われるものでも結構退屈じゃないか 人と話を合わせるためだけに義務的に見ている感じがある 漫画アニメのひとことではっとさせられること、人生観に1フレーズを付け加えることはあっても、洋画では個人的にあまりない 起きて1時間すれば忘れるひとときの夢という感じ 人生に爪痕を残すような何度も見返すような作品に出会ったことがない 誰かいいの紹介してくれないだろうか

 

人生は壮大な暇つぶしだ 労働のために生きるつもりはない 家族との幸せを夢見るタイプでもない 勉強や労働は義務でしかない 趣味を楽しみことを生きる目的に置いている自分にとって一人でのめり込めることがないというのは死活問題だ 

 

 

感情に身を委ねるという娯楽

「あんた国語できる癖になんでそんな人の気持ち分からないの!」

昔高校卒業後距離を取るようになった友人からぶつけられた言葉だ

 

正直、感情の起伏が小さい人間だし、他人の感情というものが人と比較してよくわかっていないように思う 感情に対して言語で説明を与えようとする姿勢からそもそも間違っているのかもしれない 国語ができる人間なので言語化すれば理解できた気になれる

 

Twitterを見ていると、言語という形で感情の奔流が押し寄せてくる 新型コロナウイルスに、凄惨な事件に、不安になる 政治家に、世の理不尽に、対立する思想に、怒りを覚える 世渡りの上手い人に、恵まれている人に、嫉妬してしまう 性的なものに、熱い試合に、興奮する 生きづらさに、病気に、苦しい 

インスタや顔本に喜怒哀楽の喜と楽を吸われてしまうから、どうしてもtwitterは怒と哀の奔流になってしまう

 

アクタージュという漫画を買ったが、感情に関する分析的な言及が多い。

「悲しみと怒りってちょっと似てない?(中略)人生で一番悲しかった日のこと 案外そのときが人生で一番怒った時ってやつだったりしない?」

「やれあいつが気に入らねぇ仕事が気に入らねぇ政治が気に入らねぇ(中略)学校じゃ順番みたいにイジメの対象が移り変わり(中略)ネットを開けば他人への悪意で埋め尽くされている(中略)怒り続けることで自意識を保ちもはやそれが手前のアイデンティティになっている」

 

近頃、よく思う 感情は副次的な随伴的な、自分や他人の言動、出来事で自然と出てくる結果としてのものというだけでなくて、僕ら人間は感情を垂れ流しそこに身を委ねることを目的として動いていることが多々あるのではないか、と

泣いてスッキリしたいから映画を見る、笑ってストレス解消したいからお笑いを見る、恐怖で非日常を感じたいからホラーを見る、この辺りはよく聞く「感情を動かすことを目的とした行動」だ

でも、もっともっとそういうことって多いのではないかと 感情の発露を娯楽にコンテンツに、人生の起伏にしている人って実はすごく多いのではないかと 恋愛や闘争、エログロと同じくらい、激しい感情というものに人は惹かれ焦がれているのではないかと

自己憐憫に浸りたいから病みツイ連投してみる  世の不正に怒りたいからニュースで怒れるネタを探す 悲しみ胸を痛めたいから可哀想なニュースや人を見つけて涙を流す

喜や楽といったプラスの感情を娯楽にしているのは言うまでもないけれど、マイナスの感情までも僕らは娯楽にしているのではないだろうか

 

映画でもアニメでも、「感動もの」は最も多くの支持層を得られるジャンルだし、「キャラクターに主人公に感情移入できるか」が作品を論評する上でよく語られているのを目にする

youtuberはリアクションが大きい人が伸びるし、わざと発狂芸キレ芸なんてする人もいる 海外にはリアクションするだけの動画なんかが溢れている

感情の起伏が小さい上に自身の感情を動かすことをあまり求めていない僕にはこれがよくわからない 映画やアニメなどの作品であれば独創的で作り込まれた世界観・設定や張り巡らされた伏線と謎とその鮮やかな回収といった点を最重要視するオタクだ 主人公なんて俯瞰視点で見てるので自己投影も感情移入もしない(好き嫌いはあるが) ワンピースのような登場人物の過去を掘って感情移入させて大声で叫んで笑って怒って泣いてさせる作品より、ワールドトリガーのような表情に乏しい作画で全員が淡々と合理的に行動している作品の方が見やすいなと思ってしまう テレビやyoutubeのバラエティでも、リアクションの大きい人にはわざとらしさを感じたり「うるさいな」と疎ましく思ったりする

 

自分は今までの人生そんな調子でやってきたし、今から普通の人にはなれないと思う でも普通の人を理解したい もう少し、感情という最も人間らしいものの魅力に力に気付いていきたい

11/27

冬の夜。最近の習慣で最寄りの一つ前の駅で降りた。小雨。フレンズを口ずさみながら歩いて帰った。

 

冬の夜。読書仲間と卓を囲んで古典を読んだ。この大学に来て唯一良かったことは本を共に読んでくれる人がいたことだ。それも来週で終わる。人が揃う前に一人のジェンダー論批判を聞いた。ものをよく考える人の発言だったので興味深かった。

 

冬の夜。最近成功体験を積んでいない。何かを成せる気がしない。目下就活と大学中退がかかった期末試験がある。やるべきことをしない。タスクをこなせない。趣味の麻雀やクイズをやってもうまくいかない。達成を、成功体験を積みたい。そう思ってブログを開いた。自分の文章に酔える性質の人間なのでブログは手っ取り早い自己陶酔ができる麻薬だ。自分に響く文章を綴れるのは美点だ。

 

 

(6/16 半年以上前に深夜テンションで綴ったものを下書きに発見したので今更投稿します)

 

 

 

よそものアレルギーな日本人

深夜テンションで書いてるのでおそらく話題があっちいったりこっちいったりします。

 

ここ半年くらい英語で(時々韓国語・フランス語でも)ネットサーフィンをかなりするようになった。昔から英語で洋画を見たりすることはあったが、「たまにはいっちょやるか〜」みたいな感じだった。今は触れているネット上の情報の3割くらいは英語だと思う。"勉強”の対象だった英語が、単純に情報を得るツールになってきた感じがある。

僕はいわゆる"西洋かぶれ”のようなタイプではないと思う。国際問題には東大生の中では関心が薄い方だろうし、英語の勉強も塾講で大学受験英語を教える以外ここ5年ほどほとんどしていない。高2で英検準一級とった時に少し二次対策して以降、前期教養の英語やフランス語の授業で少し英語を話す以外は英語を話すこともなかった。在学中にも留学生との交流もしなければ留学にも一度も行かなかった。理系の人はもちろん、経済学や社会学政治学、哲学等の文系学問をしていても英語の文献・論文を読むことも多いようだが、法学をしてきたので日本語ばかりで過ごしてきた。比較法のゼミに入っていた時はひたすら英語で刑法の教科書とか判例とか読んでたけど。あ、今期もアメリカ政治外交史はめちゃ英語文献読まされてるな。めんどくさい。単純にめんどくさい。怠惰な人間なので。東大生の中でも大学で英語に触れて来なかった人間だろう。入学時にはG2で上位4割ではあったはずなのに…(大昔)

 

そんな僕がなんで英語でネットサーフィンするようになったか。大学1年の頃からアクセスしたい論文やニュースを英語で読むことはちょこちょこあったが、日常で使い始めたのは本当にここ半年とかだ。一つは、youtubeの自動生成英語字幕が優秀なことに気づいたのがある。日本語の自動字幕生成の精度はゴミだが、英語は90%以上の精度で字幕が生成されるのでリスニング力がそんなにない僕でも字幕を補助にしてなんとなく聞ける。もう一つは、日本語でアクセスできる範囲の情報に飽きたということがある。twitteryoutubeも小説も漫画もアニメも映画もゲームも日本語でアクセスできるものは少し飽きてしまった。去年くらいからsteamでゲームをやるようになったのも大きいかもしれない。steamは基本英語だし。英語が娯楽の手段になってきた。

英語でネットサーフィンしていると、日本の学問と海外の学問でやっている内容が大差無いことに感動を覚える。当たり前だけど。数学も、地理も、世界史も、物理も、化学も、生物も、地学も、僕が高校までで学んだことと同じようなことをどの国の人も(少なくとも英語圏、特に僕がよく見るアメリカイギリスインドあたりでは)学んで知っていた。

 

この3つの動画、数千万回再生数あってクオリティも高いので暇なときに見て欲しい。

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

 

大学1・2年のころはK-POP追っかけでよく韓国語ネットサーフィンしてたが(今は割と忘れたけど)、日本と韓国が学校文化や遊びや言葉に共通点があまりに多いのに驚いたものだ。日本から輸入している文化も多くあるだろう。日本軍占領下に影響を受けた部分もあるのかもしれない。

メディアではその国の特色や日本との差異が取り上げられがちだが、人間性も文化も共通知も結構どの国の人も日本人とあまり変わらないなと感じる。

 

前置きが長くなった。なんでこの記事の筆を執ったか。日本のracism、xenophobia (外国人嫌い)についてyoutubeでよく海外の人が話題にしているのを目にするようになったからだ。特に最近のゴーン高飛びについて、西川前社長にも嫌疑はかけられていたのに彼は捕まっていない、ゴーンだけが捕まっている、これは日本のracismだ、みたいなコメントをさっき見たからだ。

 

日本が単一民族国家なんていうとお叱りを受けるが、日本に住んでいる人の97~98%は日本国籍だ。もちろん日本に帰化した人もいるし、アイヌ琉球にルーツをもつ人もいる。まあとにかく、日本、特に地方にいれば日本人とだけ接して一生を終えることもあるし、英語の読む書く話す聞くができなくても一生を終えられる。現に僕は外国籍の連絡を取る友人知人が一人もいない。東京や大阪、京都などの大都市にいれば話は変わってくるが、そこは置いておこう。

 

日本は翻訳が盛んで必要最低限の情報に日本語で十分アクセスできるというのもある。

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もちろん大学で研究をしようと思ったら英語で論文を読むスキルは多くの学問分野で必須ではあるが、教科書や学術書、新書、文学、ニュース記事に至るまで、日本語だけでも大衆が普段の情報蒐集に困ることはそんなにない。

 

日本人はとにかく外国人に慣れていない。道を尋ねられたら笑顔で答えるだろうが、"ヨソモノ""ガイジン"と思っている人も多いだろう。

おそらく、日本で外国人や人種差別が問題になったのはここ数十年だろうし、racismの文化も浅ければracismを非難する文化も無い。その国の訛りの英語をからかえば"racist joke"と呼ぶ文化は多民族国家ではあるだろうが日本にその文化はない。平気で中国人の日本語訛りや欧米圏の人の日本語訛りを一般の人もお笑い芸人もからかう。悪気なく「ポケモン ブラック/ホワイト」なんて出して批判を受けたりする。

そもそも、racismが人種差別、黒人/白人/黄色人種 等のdiscriminationを指すならば、日本人のこれはracismではない。日本人は日本人でなければ黄色人種でも"よそもの"として扱う。xenophobiaの方が正しい表現だろう。

別に外国人でなくとも日本人はよそものが嫌いだ、多数派と違う存在が嫌いだ。同調圧力の空気を読む社会である。いいとも悪いとも言わないでおく。日本人に限らず、中国韓国といった東アジアはその傾向があるように思う。

 

日本人に限らず、よそものが嫌いな人は世界中にいる。MAKE AMERICA GREAT AGAINとかいってるおっちゃんとその支持層なんか最たるものだ。ネイティブアメリカンにとっては彼らWASPこそよそものだろうに。ドイツでも北欧でも移民排斥はあるし、イギリスもそうだ。嫌いあってるけどみんな似通ってる。

 

欧米に留学等に行くと、黄色人種としてちょっとした差別を体験する、みたいな話もよく聞けば、中国人韓国人と結局仲良くなってアジア人グループで過ごす、みたいな話もよく聞く。僕が上京してからは九州方言の人はみんな友達、みたいに思うようになったのと似ているだろうか。なんなら「〜けん」を使うからと広島あたりまで親近感を感じる。ある中国人が「中国の文化は三分の一が自国文化、三分の一が韓国由来、三分の一が日本由来だ」と言っていたのを聞いたことがある。真偽は中国文化に疎いのでわからんが、勤勉、同調圧力が強い、uniqueであろうとしない、などの点は東アジア共通だろうと思う。世界的に見ればその三国は文化も国民性もとても似ているものだ。嫌韓嫌中はやめてほしい。ヘイトスピーチも。新大久保あたりの日本人による嫌韓落書きを見ていると胸が痛くなる。

 

nationalismとは心理学的には自己愛が拡大された形だと言うのが大学2年で得た知見だ。日本えらい日本人すごい番組も数年前多かった。今も多いのかもしれんがテレビ見ないのでわからん。そんなすごい集団に属している自分えらい、だ。

ナショナリズム共同体主義も排他的でなければいいものになり得ると思っている。地域社会も希薄化して核家族化も進んで個人主義が浸透したいま、国家として相互扶助するためには「同じ日本人だろ、助け合って生きていこうぜ」的な精神が必要なのかもしれない。

 

僕は一生日本で暮らすつもりだ。味覚が日本食を一番美味しいと感じるようにチューニングされているし、日本人の異性に魅力を感じて日本人と仲良くなるようにチューニングされている。高1で夏休み一ヶ月イギリスで過ごしたが食堂やコンビニの食べ物が恐ろしく口に合わずあまりいい思い出がない。旅行や留学に仮に行くならスペインやイタリアやカナダとかになるだろう。飯は日本人の口に合うところがいい。治安のいい日本に慣れているし、日本のコンビニや公共交通機関の利便性に慣れきっている。日本語・日本文化ネイティヴであれば国際的に見ても日本は非常に暮らしやすい国ではなかろうか。労働環境さえ改善されれば。東京に4年いて実家に九州に帰りたいと言っているような奴が海外でやっていけるはずがない。

 

日本はこれから国際化するのだろうか。少子高齢化もそうだが、産業の弱さ的に国際的な地位はどんどん落ちていくように思う。自動車産業じゃもうやっていけない。日本でIT頑張ってGAFAに並べるような企業が出てくれば違うだろうに、日本のIT人材は給料のいい中国やアメリカに流れていく。日本は取り残されていくばかりだ。僕には関係ないから知ったこっちゃないが。

 

僕は東京に住み始めたのが4年前だから比較できないが、ここ10年とかで東京で目にする外国人がとても増えたと聞く。東京のコンビニバイトはほとんど外国の人だし、中華系・カレー系の店もとても多い。おそらく、学生の目につかないオフィスビルにも工場にも多くの外国人労働者がいるだろう。入管法や外国人雇用についてはかなり法律的に危うい問題が多い。最低賃金を大きく割った労働条件で働いている人や、不法就労、失踪、不法滞在、入管収容施設の長期拘束と病気や自殺… 恥ずかしながら、この辺の問題を知って関心を満ち始めたのは一年前くらいだ。劣悪な労働条件で外国人労働者に働かせて日本社会が成り立っているとしたら、それは奴隷制以外のなにものでもない。もっとこの辺については詳しく勉強しなければと思っている。

 

日本はもう、開国して160年以上が経っている。そろそろ国際社会で一匹狼を気取るのを日本政府も日本人一人一人もやめたほうがいいのかもしれない。