ぴたぱんの備忘録

物語と人が好き。本とか映画とかドラマとかゲーム実況とか漫画とかアニメとか。触れた直後の想いを残しときます。

停滞

モチベーション

僕らは物質だ。原子の集合だ。動物とは動くからこそ動物という。動物は、ヒトは、僕らは、なぜ動くのか。「本能」という言葉は思考停止の産物だ。マズローを持ち出す人間は学問をしていない人間だから信用してはいけない。ビジネス界が自己実現をしろと生産を要請する文脈で持ち出してくるだけだ。大学1年で古典的条件付けとオペラント条件付けを習う。ほとんど忘れてしまった。与えられる刺激に対する応答。報酬を得て正の強化をしていく。そんなことだったか。古典的な行動分析だ。報酬系。内発的動機付け。外発的動機付け。刷り込み。生理的な動機付けと、好奇心のような内発的なものと。賞罰のような外発的なものと。

 

何が報酬になるのか。動物実験だとエサだろう。ヒトだと承認や収入だろう。何が生得的欲求で何が学習の産物なのか。何がドミナントイデオロギーから内面化された欲求なのか。僕らは本当に承認されたいのか。僕らは本当に性欲なんて持っているのだろうか。僕らは本当に愛されることを欲望しているのか。

 

生物が生存して生殖してきたのは、報酬系が働いてきたからだ。ADHD児は報酬系の機能低下を起こしている。ADHDにはドーパミン活性をしろ。再取り込みを阻害しろ。報酬の強化が低下し報酬を魅力的と感じる効果が持続しない,遅れて得られる報酬を待つことが出来ない。先送り癖。

 

うつの患者も報酬系がうまく働いていない。行動賦活システムの低下。報酬に対する感受性が弱まっている。

 

元気があればなんでもできる。元気がなければ何にもできない。それだけのこと。

 

停滞と無気力

アパシーとの付き合いは4年にもなる。

治療への動機付けがない。服薬への動機付けがない。通院も服薬も続かない。家から出られなくて、ご飯も食べられなくて困ってるのに病院に行けるわけがないだろう。働け。俺の報酬系

ASD特性が社会的に刷り込まれた幸福への順応を困難にしている。いい会社についたから幸福になれると思えない。大学を卒業したら大学を中退するより幸福になると思えない。思えるのかもしれないが、それが遅れてやってくる報酬だから反応できていないのか。家からでろ。引きこもり。

 

クズ。引きこもり。ニート。誰も僕をそう罵ることはしない。僕の周りの人は優しい。罵られたところで改善しないのをわかってくれているのか。

人々はフリーライダーに怨念をぶつける。こんなに私たちは頑張っているのに働いていないなんて許せない。生活保護を受給するなんて許せない。

精神障害者手帳を取得することを主治医から勧められたこともあったが断った。それを言い訳に、水戸黄門の紋所のように振りかざすようになったら僕は何か大事なものを失うような気がする。

今の僕は勉強も何もしていない。単位も取得していない。1Aも、一度目の3sも、2度目の3sも、単位を取得していない。1度目の3Aも休学していたから空白だ。僕の大学生活には現在のところ外形的に空白になっている期間が2年分ある。大学も中退を覚悟していたが、最近は少しやりたいかもしれない職業が見つかりそうで、少し前よりは卒業に対するモチベがある。2度目の3Aはテストを受けられるだろうか。家から出られるだろうか。大学に行けるだろうか。

 

進路

法曹になるのはやめました。高校からの夢だったはずだけど。うつになったら自明に無理だ。

なんの職業でもいいから、僕のような人間を雇ってくれるところに。地方公務員上級職は意外と難しい。無理だ。ひと口に民間と言っても、僕に合うところもあるはずだ。スケジュール管理能力もものの管理もゴミで全てに対して無気力でたまに家から出られない僕でもできる仕事。高卒になるのだろうか。避けられるものならば避けたい。あと半年頑張って単位取得できなかったらまた休学を挟むかもしれない。

家庭裁判所で働こうかななんて思っている。家裁の筆記試験はそんなに難しくない。倍率は高いから僕みたいな留年雑魚が入る余地があるのかは知らないけど。法律の勉強をしてたことを無駄にしたくない。子供と関わりたい。行政職には興味がない。人と一対一で関わる現場にいたい。

単なる甘っちょろい考えだ。夢とすら呼べない。まずは毎日家から出ること。睡眠を安定させること。

もうこれができなくなって4年目だ。

休学していた間に、強迫観念とおさらばして、精神的自傷のような、感情障害のようなものはなくなったと思う。いいことだ。親や医者は「改善に向かってるよ」というけど僕はそうは思えない。ホルモンとか身体的なところが変わったわけではなく思想が変わっただけだ。

この世に義務なんてない。しなきゃいけないことなんてない。責任なんて存在しない。自由意志なんて存在しない。だから自分を責める理由なんてない。

ぶっ飛んだ思想だ。人には理解されない。

でもこれが今の僕だ。

安定は停滞だ。停滞は安定だ。

今日もベッドから動かなかった。

 

 

剥ぐ・吐く

 

嘔吐 新訳

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ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)

 

※ 注意 (お断り)

本ブログの著者は哲学の素人で、頭の体操として趣味で本を読んでいるだけです。誤りを多々含む可能性があることをご承知おきください。

 

ニヒリズムとの出会い

こんにちは、ぴたぱんです。今日は虚無主義実存主義の話をします。

読者の中には、そう言われてもピンとこない方もいるかもしれません。

 

私が初めてニヒリズムときちんと向き合ったのは、川上未映子さんの『ヘヴン』を高2年で読んだのがきっかけでした。

ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴン (講談社文庫)

 

『乳と卵』等で有名な川上未映子さんですが、哲学的な要素も小説に盛り込む方で、『ヘヴン』はいじめを題材にニヒリズム(全てに価値も意味もない)と宗教(全てに意味がある)との間で揺れ動く主人公 を描いた作品でした。恥ずかしながらこれを読んで初めて、「今まで無批判に学校や家庭で教わった"悪いこと"を"悪い"として受け入れてきたけど、世の中の善悪に根拠なんてないんだ」と気づいたのです。

 

ニーチェニヒリズム批判

19〜20世紀、近代に入った西洋ではキリスト教と教会に代わって科学が支配的になりました。それまで神と教典に拠って規定されてきた「何が正しいか」「どう生きるべきか」「何が善で何が悪か」「生きる意味とは何か」が失われていったのです。(善悪基準の根拠については17〜18世紀に出ていた契約説が新たな根拠として機能していた面もあるでしょう)特に19世紀ロシアでニヒリズムの風潮は根強く、トゥルゲーネフやドストエフスキーらの文学でも(やや批判的な文脈で)描写されています。

意味を信仰を失った人々は、ある人は生きることに否定的になり、ある人は無政府主義になり、ある人は革命に走ったのでした。

そんな19世紀に現れ、「積極的ニヒリズム」を掲げたのがニーチェです。(ニーチェは信仰を価値を否定している点ではニヒリズムなのですが、生を否定している"消極的ニヒリズム"には否定的で、"積極的ニヒリズム"と呼ばれます。)キリスト教道徳を奴隷階級の貴族階級への「ルサンチマン(怨恨)」由来の「奴隷道徳」だとして批判した上で(「神は死んだ」)、生を否定するロシアに蔓延するニヒリズムをも激しく非難し、「生への意志」「力への意志」を掲げ力強く生きよと説き、「運命愛」の思想で実存主義の先駆けとなったのでした。

 道徳のことがらにおいては、これまで本能が、キリスト教徒の呼びかたで言えば<信仰>が、私流儀にいえば<畜群>が勝利をしめてきたのだ。ただし合理主義の父であるデカルトは例外としなくてはなるまい。彼は、理性にだけ権威を認めた。だが、理性は一つの道具にすぎないものだ。その点デカルトは浅薄であった。

法と不法をそれ自体として論ずることはまったく無意味なことである。生が本質的に(中略)破壊的に働くものであって、かかる性格なしには考えられないものである限りは、侵害も暴圧も搾取も破壊もそれ自体としては何ら<不法なもの>でありえないことは明らかである。(中略)法律状態というものは、権力を目指す本来の生意志を部分的に制約するものとして、またこの生意志の全体的目的に従属する個別的手段として、(中略)つねにただ例外的でしかありえないということである。

既存の価値や道徳を批判しながらも生への悲観や堕落に陥ることなくあるがままの運命を愛せと説いたのです。

 

キリスト教が強かった前近代が終わったと言っても、現代日本はメディアや流布している価値への同調圧力が強く働き、それは一種の信仰と道徳、価値体系をなしています。私はいつもそれに批判的になってしまい、日本社会の信仰を崩し価値基準の根拠のなさを指摘し化けの皮を剥がしたくなってしまいます。しかしそれは同時に「こうするのが幸せだ」を失ってしまうことと同義で、ニーチェのように「生」の絶対善を措定できない私は何事にも動機付けが持てず堕落してしまいます。

 

サルトル実存主義

「実存は本質に先立つ」20世紀半ば、この言葉を知らないものはいなかったと言います。ハイデッガーヤスパースらが導入した「実存」をフランスに輸入し、『存在と無』『実存主義とは何か』などで実存主義の一大ブームを巻き起こしたのがサルトルです。

 

サルトルは、フッサールハイデッガー現象学(わからない方は調べてみてください。フッサール現象学については、自分の存在や対象の意味を自明なものとして心的確証を持つのをやめ、世界内からの意味づけを剥ぎ取って対象の存在に迫ろう的な感じだとブログ筆者はいい加減に理解しています)に影響を受け、「存在と無」で現象学存在論を発展させています。

現象学的に分析すると、人間の存在の中心に「本質」はなく、そこにあるのは無です。その上で、「対自存在」(自己に対する意識を持つもの、人間など→自己同一的でない)と「即自存在」(そのような意識を持たないもの、無機物など→常に自己同一的)をわけ、「対自存在」である我々人間は、どうあるかを自由に選べる存在であり、「人間とは彼が自ら作り上げる存在に他ならない」と主張しました。これが有名な「人間は自由の刑に処されている」の意味です。そして、本質がないまま人間が存在しているというのが「実存は本質に先立つ」です。

「実存は本質に先立つ」とは、簡単に言えば「置かれた場所で咲きなさい」的なことです(ほんとか?)もう少し噛み砕きます。「本質が実存に先立つ」例としてペーパーナイフを人間と対比させています。ペーパーナイフは「紙を切る」という目的、<本質>があって生み出されているものですが、無神論的に人間にはその<本質>がありません。

本質、つまり、人間が生きることに目的や意味はありません。しかしながら、この世に存在している人間は、どうあるかを自ら選べるのであり、選んでいかなければならないと説くのです。

 

こういった実存主義の考え方は、第二次世界大戦後に確かなものが崩れ去り既存の価値体系が崩壊した20世紀フランスにおいて、前述の消極的ニヒリズムに陥った人々への一種の救いとなりました。こうしてサルトルブームが起こったのです。

 

サルトル『嘔吐』

上記のサルトルの思想、実存(存在)に関する哲学を小説の形にしようと試みられたのが有名な『嘔吐』です。サルトルは『嘔吐』のような文学作品でも知られ、1964年にはノーベル文学賞に選出されるも辞退し、自発的にノーベル賞を辞退した最初の人物としても知られます。

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

 『嘔吐』のあらすじを勝手な解釈混じりでまとめると、

主人公ロカンタンは働かず論文を書いたりしている、生きる理由も死ぬ理由もなく生きている。ある日、それまで好きだったもの、道端で拾う落ち葉や自身の研究課題、肉体関係のある女性などについて「吐き気」を催すようになる。

長らく「吐き気」の原因がわからなかったが、ある時公園で、ベンチの下でマロニエの木の根が地面に食い込んでいて、裸の存在として周りと何の関係もなく存在している、「余計なもの」だと気づいた時に「吐き気」の正体に気づく。

ロカンタンは、身の回りの人やものを自らの意味づけた世界の中で位置付けることができなくなり、それらが「不条理に偶然に存在している」「存在は必然ではない」ことに吐き気を覚えていたのである。

我々全ては余計な存在である。

ものに限らず、人間も「余計なもの」で世界に生きているのに理由はない。

「私たちはみんなここにいる限り、自分の貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしているけれども、実は存在する理由など何もない、何一つない、何一つないんです。」

 

そんな彼が唯一吐き気が収まるのが、好きなレコードを聴いている時だった。(秩序立った、全てに意味がある"世界”が心地よかったのだろうか)これに気づいたロカンタンが小説を書こうと思い至って 物語は終わる。

 

存在と無』などよりも前に書かれた『嘔吐』自体は存在に本質がないという現象学存在論が主題となっているが、実存主義的な考えはロカンタンのセリフにも現れている。

「人生はそれに意義を与えようとすれば意義があるのです。先ず行動し、企ての中に飛び込まなければならない。そのあとで反省をすれば、運命の賽は投げられたのであり、すでに途は決まっているのです。」

 

もしブログ読者の中に生に否定的なニヒリズムに囚われ生きづらさを感じている方がいらっしゃるなら、ニーチェサルトル実存主義的な生き方は一つの答えとなるのではないでしょうか。

 

残念ながら私には救いとはなりませんが(苦笑)

サルトルに救いを求めてブームとなった構造は宗教そのものですね)

 

実存主義から構造主義、さらにポスト構造主義

ここから先は私もあまり詳しくありませんので今後本を読んで夏休みにでも書きたいと思います。

ニヒリズムが意味や価値の剥奪、つまりもっとも人間的な行いである主観的意味づけ、信仰、価値づけを否定するアンチヒューマニズムであったならば、サルトル実存主義は人間の主観の復興とも言えるものでした。サルトル実存主義ヒューマニズムであるといっています。

しかしながら、1960年代に登場した構造主義の代表格であるレヴィ=ストロースサルトル実存主義を強烈に批判しました。構造主義は、「人間は見えない(自覚されない)構造に動かされている」といったようなものですが、マルクス主義に傾倒するようになったサルトル実存主義的な立場から「歴史は後から肯定される」というような態度になったのに対し、歴史解釈が西洋中心的で、主体偏重のものだと批判したようです。

こうしてモデル化して構造を解明しようとする構造主義が主流となり、実存主義は下火となりました。

しかしその構造主義フーコーデリダによって批判されます。構造主義は静的な構造のみで説明しようとするものですが、構造の生成過程や変動にも注目する必要があるとしたのです。言葉によって構造化できるというのが誤りだというのです。(この辺ブログ筆者はまだよくわかっていません)明確な定義や枠組みがあるわけではないようですが、この辺りの思想をポスト構造主義と呼ぶようです。

 

ここまで読んだ方は、「あれ?」と思ったかもしれません。いわゆる「生の哲学」の系譜からは構造主義ポスト構造主義は外れているため、実存主義との連続性はあるにしろあまり関係ないとも言えるかもしれません。実存から方向性を自由に選び取ることはレヴィ=ストロースのいうように歴史解釈に適用するのはまずいのかもしれません。しかし、「宗教を失った我々はどう生きるべきか」には依然として実存主義的な考え方は有力なのかもしれません。

 

剥がさずにはいられない

私個人としては、それができる人ならば宗教や信仰、流行に乗って意味を価値を規定するのもありだと思っています。「世間の作る価値や意味が虚構だとわかってもなおそれを楽しめる」という人が僕の周りには何人かいます。生の肯定とはまた違った、信仰の肯定のようなものでしょうか。生き方として一つ有力でしょう。

それでもなお、私は「どうやれば上手く生きれるか」という打算よりも「それおかしくね?」という批判が優先してしまう人間です。生を肯定するのもおかしいと感じるし、虚構を虚構だとわかりながら受容するなんて器用なことはできません。

みんなが賞賛しているぬいぐるみがあったら、背中を開いて「こんなの綿じゃん」と言いたくなる、みんなが魅了されるマジックがあったら「タネを明かせばこんなの大したことないよ」と言いたくなる、そんな人間なのです。

僕の友人には、坂口安吾の「無頼思想」になら乗れるという人もいます。ニーチェのように堕落を批判するのではなく、「堕落してもいいじゃないか」と考えるのです。それもありなのかもしれません。

 

既存の価値体系に根拠はないと言いつつも、「剥がさずにはいられない」とは言いつつも、内面化されたものを見つけ「これは僕の自由意志・本能ではない」と言いたくなりつつも、頭では思っても感覚ではみんなと同じようなものに喜怒哀楽を感じる自分がいます。美味しい食べ物を食べれば美味しいと喜びます。女の子から振られれば悲しいです。フリーライダーには怒ります。みんなが面白いと思うもので笑えます。今は、それに人生の機微を見出し、喜べるものを享受するために生き続ければいいのではないかと思っています。

 

狂気と頭の体操

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こんにちは。ぴたぱんです。

テスト期間です。セルフハンディキャッピングの季節です。

テスト前にもかかわらず哲学の著作を買いあさり読んで、時間のかかる「長文ブログを書く」なんてことをしようとしています。これを読もうとしている読者の方もそんな感じなのではないでしょうか。僕と読者の方の勉強時間の確保のために、できる限り簡潔にまとめます。暗い話なので耐性のない方は読むのを辞めることをオススメします笑

 

以前の記事からの変化・訂正

pitapanbibouroku.hatenablog.com

4月末にこんな記事を書きました。ここ数年の僕の思想・思考の基礎となる部分を記したつもりですが、多くの友人から「あの文章めちゃよかった」「久々に頭使った」「狭い範囲の人にはめちゃめちゃ刺さる文章」との高評価をいただきました。

怒りと衝動に任せて深夜テンションで書いた文章だったので、接続詞も使わない、ろくに調べもせず事実と異なる記述も含む文章であったことをお詫びと訂正させていただきます。合わせて、この記事を書いた時から変化があった点についても書きます。三点だけ記すので本論に入る前にお付き合いください。

 

一点目。ロールズ『正義論』について。

4~6月、友人3人と『正義論』の輪読をしました。7月はテスト前で中断していますが、8~9月に約800ページの大作を読み終わり、各節の要約レジュメも完成させるつもりです。

正義論

正義論

 

前の記事で

ロールズは無知のヴェールを被れば全ての人の被害損失が最小になるシステムを選択するはずだという。全体の生産量を最大化するための格差の肯定。現行システムへの後付け理論補強に熱心だ。僕は90%の確率で強者に生まれ10%弱者に生まれる場合にシステムを選択しろと言われたら、強者の利益を最大化できるシステムを選択する。

と書きましたが、これは解説書等を読んでの理解で、実際に『正義論』を読むと誤解だということがわかりました。ロールズの想定する「無知のヴェール」を被った「原初状態」では、実際に社会に入った時に自分がどんな地位に立つ確率がどの程度かの情報は得られず、したがって制度の選択をする際に自分がつくであろう地位についての期待値計算はできないとのことでした。輪読が終わったら一度ブログに約800ページを読んでの感想等まとめようと思っています。

先のブログで引用している他の先人の思想についても、誤解がある可能性があります。今後少しずつ原典(の翻訳)に当たりながら検証して行きます。

 

二点目。小坂井敏晶氏への評価について。

先の記事を書いた時には非常に小坂井氏を評価していました。パリまで会いに行きたいと思ったくらいでした。しかし、よく調べてみると、どうやら彼の著作は僕のブログと同じくらい出典と引用先の著作についての理解が雑なようなのです。特に自然科学、医学に関しては「聞きかじり知識」程度でそれっぽく書いているだけで誤解もあるという指摘があるようでした。

それでも、現代人の中に残る「虚構」と「神の亡霊」(僕のいう「信仰」)への考察を読みやすい文体で切れ味のあるナイフのような鋭い言葉で記している点はエッセイとして非常に評価できると考えています。

責任という虚構

責任という虚構

 
神の亡霊: 近代という物語

神の亡霊: 近代という物語

 

 

三点目。法学部の友人の自殺について。

東大法学部。友人が一人死んだ。その話を聞いた別の友人は、「東大法学部のシステムの欠陥だよ。」違う。あそこを砂漠にしているのは法学部生の忙しさだ。個人主義だ。助け合うより自分一人でやる方がパフォーマンスが高い人たち。僕たちの忙しさは彼を殺した。

休学中および先の記事を書いた4月は、彼を止められなかった自分を一人で責めていました。しかし、6月に彼の大学での一番の友人に会って、彼の身を案じ、止められなかったことを後悔し続けていた人が何人もいたこと、その友人が「7月のあの時仮に止められたとして、次のテスト、就活、その他人生の様々な局面で結局彼は首をくくっていたかもしれない。あの時止められなかったことを悔いても仕方ない」と言っているのを聞いて少し納得しました。少しずつ消化していきたいです。

 

フーコーの「狂気」考察に触れた衝撃

ブログの本論に入ります。誕生日にかねてより読みたいと考えていたフーコーの『狂気の歴史』やその解説本、講義録を収録した本を数冊買いました。

狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における

 

 休学していた時に有名な『監獄の誕生』については読んだのですが、その時は「ポスト構造主義」や現象学ニーチェハイデガー等他の19~20世紀哲学からの影響や流れについてほとんど理解していませんでした。触りだけでもわかるようになった今、それらとの関係の中でフーコーの思想を位置付けることが少しはできるようになってきたと思います。

さて、これらの本を読んだ時、「俺が探していたのはこれだ!!!!!」と雷に打たれたような衝撃を受けました。私の中学からの関心事は「刑事政策」、すなわち刑事施設内処遇や刑務所から出た前科のある人の改善更生、社会復帰、さらに少年法や非行防止の教育学的アプローチ、犯罪心理学医療観察法、ダイヴァージョン理論等でした。そしてここに、大学に入って自身が苦しんだ原体験から、「精神障害」、特に精神障害者の犯罪、ASD、鬱、BPDやその他パーソナリティ障害、統合失調症双極性障害についても詳しく調べていました。これらを総括すると、僕の関心は「逸脱」です。そしてこのフーコーの「狂気・理性」考察は「狂気」とは何か、我々がいかにして「狂気」を監禁してきたかが綴られています。そしてそれは「逸脱」とその排除への考察でもあるのです。

 

※注意(お断り)

私の専攻は法学であり、心理学や哲学、社会学精神病理学は大学できちんとした授業を取っているわけではなく趣味で本を読んだりしているだけです。ただの頭の体操です。特に哲学や社会学の思想に関しては「専門の人」から殴られかねない読み方(自分が疑問に思ったことに関連のある思想のみ追う)をしています。ど素人の誤解含む見解だと思って以下の部分は読んでください。

 

狂気と理性、精神病、監禁(引用)

以下、上にあげたフーコーの著作、フーコーの講義、小林康夫東京大学名誉教授による解説から引用します。どの部分がどの本の何ページなのか気になったら知人の方はぴたぱんに直接聞いてください。僕が本に折り目をつけてるとこです。出典の明記がめんどくさくなりました。テスト前なので。

全ての心的な症候を薬理学的にコントロールできるようになるということだろうか?あるいは、行動の逸脱を十分に厳密に定義することによって、社会がそれぞれの逸脱について適切な防止措置をとることができるようになるということだろうか?(中略)それらの変化の全ては私たちの文化から狂気の顔立ちを消し去る意味を持つことになるのだろうか?

ひとつの文化が、それがまさに排除するものに対してもつ関係であり、もっと正確にいうなら、われわれの文化が、狂気のなかに発見すると同時に隠している、あの、遠くかつ逆転した、己れ自身との関係の真理なのである。

歴史の資料を探ってみると、十七世紀の半ばごろまでは、西欧は狂人に対して、また狂気というものに対して、まさに注目に値するほど寛容であった。狂気という現象は、いくつかの排除と拒絶のシステムによって明示されているけれども、それにもかかわらず、いわば社会や思考の織り目の中に受入れられていた。(中略)周縁的存在ではあるけれども、完全に排除されていたわけではなく、社会の機能の中に組み込まれていました。ところが十七世紀以降というもの、(中略)周縁的存在としての狂人を完全に排除された存在へと変えてしまいました。

『狂気の歴史』は西欧の近代の理性がどのように生み出されたのかを問うという、正統的に哲学的な問題を扱うと同時に、精神分析や心理学、そして歴史学の問題領域へと踏み込むものだったのだ。監禁や排除が生み出した精神医学という「人間の知」を問うという、知と権力の問題を初めて提起した本でもあった。

デカルトの『省察』の一節を分析するフーコーは、デカルトの「懐疑」が思考から狂気の可能性を排除していることを明らかにする。そこでは理性と非理性とのあいだに決定的な分割線が引かれ、狂気はこの境界線の向こう側に閉じ込められている。(中略)理性がみずからの圏域から非理性を追放するのと同様に、社会は非理性的存在を排除することで、安定した均質性を獲得しようとする。

ここで興味深いのは、狂気の本質的な構造は言語活動だとフーコーが指摘していることだ。(中略)イマージュ(ぴたぱん注:幻覚や幻聴など)それ自体としては純粋なものであって、狂気ではないのだとフーコーは言う。つまりどのようなものが見えてしまおうが聞こえてしまおうが、それを「非理性的」「非論理的」に解釈してしまう異様な言語活動が存在する場合にのみ「狂気」なのである。狂気が、かりに異常なものであれ何らかの論理にもと付いて構築された言語活動ならば、理性による把握ができるはずである。こうして狂気の危険性は打ち払われ、狂気は理性の取るに足らない「対象」とされる。

こうした権力関係(ぴたぱん注:医師と精神病患者との権力関係)に置いて、第一に含意されていたのは、非狂気が狂気に対してもつ絶対的な権利だった。それは、無知に対して行使される能力という観点から書き写された権利であり、錯誤(幻覚、錯覚、幻影)を修正する良識の権利であり、混乱や逸脱に対して課される正常性の権利である。この三重の権力が、狂気を医学にとって可能な認識対象として構成し、これを疾病として構成してきた。その時、そうした疾病に罹った「患者」は狂人として貶められるのだったーーーつまり、自分の疾病に関する一切の権力と一切の知を奪われたということである。

 

狂気と理性、精神病、監禁、逸脱と矯正(考察)

ここからは私が考えたことです。(フーコーが書いている内容とは少し離れます)テスト前でフーコー講義や解説書をざっと読んだだけで『狂気の歴史』そのものの精読はできていないため誤解の可能性があることをご承知おきください。

『狂気の歴史』はフーコー前期の著作で、のちにフーコーの軸となる「知」や「権力」についても取り上げられています。17世紀に乞食や狂人、怠け者などの「逸脱者」をまとめて収容したパリ「一般施療院((Hôpital général)」の設立に始まる「大監禁時代」の150年、18世紀末の狂人の"解放”、19世紀の精神病棟と刑務所への監禁と、時代とともに社会がどのように「狂気」を監禁してきたかに鋭く切り込んでいます。

 

皆さんは「狂人」に触れたことがありますか?駅前で座り込みわけのわからないことを口走っている人、電車で大声で叫んでいる人を見かけたら「近寄りがたい人」として関わらず一瞬後には忘れようとするでしょう。私もそうです。読者の方もそうだと思います。近寄りがたいもの「狂気」は、しかしながら、私たちのすぐ身近な他者に、私たち自身の中にあると思うのです。蓋をしているだけで。監禁しているだけで。

「非理性」、動物的なもの、は幻覚や幻聴、不審な行動として現れることもあるでしょうが、本能と衝動、感情の奔流として現前することもあるでしょう。デカルト以後の近代人間観は、人間を「理性的なもの」とします。現代でも、ポストモダンといいつつも、社会は人間に「理性的存在」であることを要求しているように感じます。しかし同時に人間は、「理性的存在であること」に窮屈さを覚え、本能と衝動、感情の奔流に身を任せたいと望むものでもあります。

仕事の後、大量にアルコールを摂取して「無礼講だ!」と言って馬鹿騒ぎしたい時もあるでしょう、祭りの喧騒、クラブミュージックの喧騒に身を任せて踊り騒ぎたい時もあるでしょう、性欲に身を委ねて獣のように性的欲求に身を任せたい時もあるでしょう。

それらは「非理性」です。そして、「健康」な人間は意図的にそう言った「非理性」に身を任せ、そのあとは何事もなかったように「理性」的な人間として振る舞う。

「狂気」はその「非理性」の先にあると思います。僕自身、うつ状態がひどい時には狂気に片足を突っ込んでいます。部屋にはものや脱いだ服や食べ物が散乱し、一日中座ってベッドに横たわって空を見つめている。頭の中には「苦しい、違う、違う」と渦巻き、常にネガティヴな感情に支配されている。自分の意思で自分の感情を統御できない。感情障害。大学1年から3年の僕はしばしばそのような状態に陥り、3年の後期、大学を休学して実家でまたそのような状態で過ごしていました。はたから見たら「狂気」の一歩手前だったに違いありません。

それでは、そうじゃない時、僕の中に「狂気」は一切ないのか?僕は「普通の人」っぽく振る舞うことに長けていると自負しています。少なくとも人前で「狂気」を現前させたことはないと思っています。しかし、それは自分の中に狂気を監禁しているだけなのです。自分は「理性的存在」なのだと信じて。

もし精神疾患を持っていなくても、癇癪を起こし感情の奔流に身を任せること、「理性」を失う経験を誰しもが持っているのではないでしょうか。しかし、自己像を把握する時、アイデンティティを同定する時に自身のそういった「非理性」には蓋をし「理性的な自分」のみで構築しようとはしていないでしょうか。

 

重篤な精神病患者は監禁されます。昨年、僕の親しい友人が東大病院閉鎖病棟に入院していました。閉鎖病棟では、外に出られなくなっていて、スマホも取り上げられていたようです。自分で首をくくらないようにカーテンがなかったり、下着も制限されます。下着が制限されるのは刑務所も同様です。精神科閉鎖病棟にしろ、刑事施設にしろ、建前は「本人が社会復帰できるようにするため」ですが、実態は「外部の人に迷惑をかけないようにする隔離」です。多数派の数の暴力によって排斥された少数者です。そしてそれら逸脱者は、「普通の人」から目に触れないところに幽閉され、みんなの目から隠されます。

私の父親は重度知的障害・身体障害者施設で医者をしています。手伝いに行った時、そこには「私たちの知る世界」とは全く異なった世界がありました。言語による意思疎通ができない患者さんが8割以上。手を握ったり、声をかけた時の表情の変化、僕らには理解できない発声の調子の変化からかろうじて感情を読み取る他ありません。車椅子に乗って、自力移動はできず、食事も基本的に施設職員の補助を要する。そんな人たちは、私たちの社会からは目に触れないところに隔離されています。

 

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

これは熊代享という精神科医の方のブログ記事です。かつては「狂気」として大きくまとめられ、表舞台にも「変わった人」として存在し社会に包摂されていた存在が、精神病理学の発展と周知によって、そして社会の情報化高度化によってはじき出される者が増え、「狂気」は分類され細分化され、「君はADHDでしょ。治療受けないと。」「君はASDでしょ。治療受けないと。」という風に、緩やかに社会に包摂されていたものがはじき出されているというようなお話です。興味のある方は読んでみてください。

 

フーコーの引用で医師の権力、「非狂気が狂気に対してもつ権利」「無知に対して行使される権利」について記しました。医者はパターナリスティックです。自己決定を重視する法曹と生命の安全・健康を重視する医療関係者は、常に「リベラリズムvs. パターナリズム」という形で臓器移植、延命治療、尊厳死、オリンピックでの感染症予防といった場面で対立してきました。「患者のため」医療関係者は本心からそう言います。「患者が自殺しないように」閉鎖病棟に入院させます。自宅療養している患者さんについても、家族が「本人のため」と言ってできる限り家で過ごさせます。そこにいい悪いの価値判断は介在しません。しかし、社会的に見ると、それは「健康な大多数」に迷惑をかけず、目に触れさせないようにしている「監禁」とも取れるのではないでしょうか。

 

「狂気」に魅了されたフーコーは、デカルトの時代に「大いなる閉じ込め」をされた「狂気」がニーチェサルトルの時代に復権してきていると言います。ニーチェ哲学史の大いなる転換点と認められていると同時に、晩年発狂して死に至ったことが知られています。フーコーを買ったのと同時にサルトルの『嘔吐』を買って読んだのですが、

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

主人公のロカンタン、そしてそれを投影しているであろうサルトルは明らかに狂気の淵にいます。そしてニーチェサルトルの功績は人類に讃えられているのです。哲学者に限らず、芸術の世界にも狂気の瀬戸際にいたものが高く評価されている例は多くあります。太宰治三島由紀夫…枚挙にいとまがありません。「狂人」もしくはその一歩手前だったものが高く評価されたのは、それは「論理的に説明可能」「言語で説明可能」な範囲での"狂気"だったからです。そして彼らが言語でもって「理性的に」語る「狂気」の片鱗を多くの人が自らのうちに感じ取っていたからでしょう。エヴァンゲリオンのような全ての登場人物が(監督である庵野秀明も含めて)人格障害精神疾患を抱えている作品が高く評価されるのもその流れだと考えます。

 

 

フーコーは劇や作品において「狂人」が真実を語るものとしての役割を演じることが多いと言います。一般人は、「自分たちとは違うもの」に真理を語らせたり神秘的なものを見出したりします。それはオリエンタリズムにおける東洋の神秘性や、「オカマが本質を語る」のような文化と通底するものであるはずです。それはレッテル貼りであり、理解の拒絶です。 僕のブログをそのような目線で読んでいる読者がいないことを願ってやみません。

  

まとめ

脱線が酷くなりました。社会には様々な「狂人」「逸脱者」がいます。発達障害、知的障害、身体障害、前科のある人、新興宗教に傾倒する人…そして、「社会」は、「多数派」は、それを閉じ込め蓋をし「自分は理性的だ」「自分は多数派だ」「社会は理性的な人間で構成されている」と信じて疑わず、そしてだからこそ回っていきます。個人のうちにも非理性の、狂気の片鱗はあります。そして個人の中の「狂気」も閉じ込められています。しかし人間は閉じ込めながらも自らの「非理性」や「狂気」を自覚し、時にはそれが発露できる場、それが発露されたコンテンツを求めたりします。「逸脱者」が隔離された方が幸せなのか、理解とともに社会に「包摂」された方が個人にとって幸せなのかは、個別具体的に判断するしかありません。しかし私は、「狂気」に片足を突っ込んでいる者として、「多数派」ではないものとして、隔離された小社会への理解の試みを辞めずに続けていきたいのです。そして自らのうちにある「狂気」を肯定しながら、その手綱の取り方、付き合い方をも探っていかなければなりません。

 

 

 

(「簡潔にまとめる」とかいって8500字になりました(苦笑)) 

某某省×やほーの温度高めなイベント行って来た

どうもみなさん、おはこんばんにちは〜(国内最大某ゲーム実況者の真似)

ぴたぱんです

4年生なのに3年生のような生活を送っていることで周りの反感を爆買いしております

圧倒的インバウンド!!

本日3年生っぽい活動の一環として、久々に意識高いイベントに足運んで来ました〜

 

(以下、関係者の目に止まりたくないので固有名詞など一部ぼかしながら書いていきます)

 

 

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会場はここ!意識高い大学生がよくくる、やほーです

 

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こんなイベントです

検索に引っかかりたくないので文章にはしませんが、上の画像のようなハッカソンもどき(よくある奴)です

 

みなさん、法某省に対してどんなイメージを抱いてらっしゃいますか??

省庁序列が環境某と並び最下位で全然東大生が志望しないところ??

新人の裁量もない、国葬の人が出世できない、古くて堅くてなんの面白みもないところ?

 

 

 

それ、合ってます(小声)

 

僕もそう思ってます(小声) 

 

 

 

 

何とは言わないけど… THE お堅い省庁という感じです

SNSマーケティング・広報がなんたるか知ってますかあんさん、って感じ

SHARPとかタニタタカラトミー等のtwitterとか、首相官邸のインスタとか見習って欲しいものです

ゆるキャラについて言えば、くまモンより可愛くないゆるキャラは全て無意味だと思っている過激派です。まあ職員さん曰く、子供が親しみ持ってくれればなんでもいいらしいですけど

 

 

とは言え、僕のやりたい関わりたいことどストライクでやっている省庁であることは間違いないので、今回は僕の所属している某ボランティア団体経由で参加させていただきました。民間の方や大学生が多く参加するということで少しは楽しいイベントになるかなあと期待して行きました。

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建物は格好いいです。さすがかすみがせきいっちょーめいちばんち。 出展:法務省

 

 

いい意味で期待を裏切ってくれました!!!!

 

 

やはり民間の人はエネルギーがある。給料も出ないのに一日こういうのに参加してくれる人たちのエネルギーはすごい。

大学生もエネルギーに溢れた素敵な方々が多くいらっしゃいました。

 

普段、その某ボランティア団体で関わる人たちは、「身内」というかその道の公務員の方ボランティアの方そういう施設から出た方が多いので、

「正直、かなりニッチな分野だし、こんなん興味持ってる人ほぼいないよなあ」

とか思っていました。

 

ところがところが、今日(一日無給なのに)あの場に集まってくださった方々は、なんと120人以上。正直圧巻でした。

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FB掲載許可出していらっしゃったみなさんですが一応雑加工しました

現在社会復帰して活躍している方のプレゼンがとても引き込まれるもので、感銘を受けたのが印象に強く残っています。

 

参加されていた民間の方も、やほーとか顔本、NRIなど名だたる企業の方々や投資家の方など非常に多様でした。こんな人たちも関心を持ってくれているのか!!

民間の方のみでなく、こういう機会でないとなかなかコンタクトを取りづらい某務省職員さんとも多く関わることができ、素敵な方もいるんだなあと思えました。

 

 

内容についてですが、ブレストしてコンペしてブラッシュアップというまあお約束な感じでした。特筆すべきは、コンペで上位になってブラッシュアップ対象になった12の案のうち、10個が女性の方の発表、5個が女子大生によるものでした。女子大生は強し。

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こんな感じです

おそらく経某(ME◯I)とかはこういった空気に近いものが普段からあるのでしょうが、MOJはなかなか穏やかなおじさまおばさま中心のところなので、こういった空気は非常に新鮮でした。

 

オフレコでぶっちゃけた話をしてくださった若手某務省職員さんや、すごく優しくしてくださった40代くらいの素敵なマダムお姉さん職員さんとの出会いが一番貴重だったのかなと思います。なぜか弁護士になってNPOから携わりたいというと積極的に後押ししてくださいました。

 

ネガティブな話もいくつかします。

やはり「政策作ってんのってこういう価値観のおっさんたちなんだなあ」という思いが強まりました。世代間対立を内面化してしまっている僕です。流行に疎いなんてもんじゃないんですよね。僕の父親よりひどい人がこんなにもいるものかと。

ディスカッションに関しては、夢見がちな案が称揚されたり、審査員の利益関係に関連の深い案が選ばれたりしていたことは失望ポイントですかね。

東大生の議論好きな人を捕まえては議論吹っかけているぴたぱんとしては、単位時間あたりの議論意見の深みのなさ、遅さ、人任せ加減に辟易した面があることも事実です。

 

まあそんなことは些細で、行って非常に良かったです。少し自分の中で霧が晴れた感じがします。あと地味にブログで一番の関心分野の話題書いたことなかったのでこの機会に備忘録として記せて良かったです。(普段の某ボランティア団体は画像共有禁止だったり秘密保持が厳しいので今後もあまりこういった話題の発信はしないと思います。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いや〜参加してた女子大生可愛かったなあ

復学して1ヶ月。平成が終わるみたい。

ご無沙汰しております、ぴたぱん(@panda7penpen)です。

ブログってめんどくさいですよね、本読んで備忘録にするとかほざいてて、本は人並みに読んでいたのですが、ブログにすると適当なこと発信できなくて読み込まないといけなくなったり関連文献に当たらないといけなくなったり。コストが大きい形のブログは続きません。

 

 

復学して1ヶ月。平成31年4月29日午前2時。深夜テンションでブログを書きたくなる。

形なんか気にしない。閲覧数なんか気にしない。今イライラしている。思いつくままに文章を書く。あと1日で平成が終わる。GWで時間がある。この瞬間の思いを残したくなった。

 

 

【時間、イベント、ハレとケ】

何が天皇追いコンだ、何が令和歓迎飲み会だ、理由をつけて飲みたいだけじゃないか。

いかに「他人が作った、自分には納得できない規範・システムに従うこと」が嫌いか。時間は直線的なのだろうか。循環するのだろうか。ニーチェ永劫回帰論は妄言だと思う。彼は人生哲学における成功者ではない。発狂して死に至った者の、自分への慰めが彼の哲学だ。話が逸れた。地球の公転周期に合わせて1年が作られる。地球の自転周期に合わせて1日が、月の公転・自転周期に合わせて1ヶ月が設定される。これは納得できる。なんでキリスト生誕に合わせて生活してやらねばならない。彼はそもそも実在したのか。僕は無神論者だ。なんで1週間を7日で生活してやらねばならない。誰が神が7日で世界を創造したと想像した。指パッチン。ビッグバン。ID論。僕は無神論者だ。オッカムの剃刀で削ぎ落とせる。仮定する必要がない。ただそれは不存在の証明ではない。不可知。7日間が1週間。2日働いて2日休んで2日働いて2日休んで。今の発達した社会なら、みんなが食糧自動生産だけに全力を注いだなら、そのくらいで生存はできるんじゃないか。

数十年区切りにした方が時代の把握はしやすい。その意味で元号は有用な面もある。でも西暦〇〇年代でいいじゃないか。(なんならヒジュラ暦でもいい。)中国も朝鮮もベトナム元号はやめているのに。日本だけ。天皇制の存続が国家の存続。皇室への税金。内廷費3億2400万円皇族費2億6400万円宮廷費111億4900万円。宮内庁への税金。宮内庁費123億2700万円。僕は納得していない税金を払わねばならない。社会に出たくない。その金で僕を養ってほしい。右翼を黙らせる口止め料。GHQに嘆願して存続されたらしい天皇制。1945年の人々には国家の象徴が必要だったんだろう。今の日本は。今の若者の心の支えはアイドルではないのか。天皇の国事行為に慰められ感動して涙を流す20代30代が何人いるのか。これから税金を払うのは僕らだ。高1の時1ヶ月イートン校に短期留学していた。2013年7月。ちょうどその頃ジョージ王子が誕生した。日本ではイギリスは熱狂と報道されていた。騒いでいるイギリス人は、日本でいう国会議事堂前でデモする程度の規模。ほんの一部。みんなは平常運転。イートンの学生は、「貧しい人たちも大勢いるのに王室には多額の税金が使われている。僕は反対だ。」と(英語で)言っていた。イギリス人もそのくらい冷めている人もいる。国家の統治は国民の感情の統御だ。怨念を沈め熱気を士気をあげ生産させる戦争させる。神権政治でもやってればいい。卑弥呼様でも呼び出せばいい。大川隆法に降霊させてはどうだろうか。話が逸れた。

イベント。他人が決めたイベント。資本主義に作られたイベント。就活。バレンタイン。恵方巻き。理由なんかつけなくても祝日を作れないのか。山の日が作れるならなんでも作れるだろ。人と集まれる機会は自分で作る。みんなが一斉に出勤する。混雑。東京一極集中。出勤時間ずらせよ。みんなが一斉に仮装する。ハロウィン。新しい文化。文化は新しく生成される。100年後にはハロウィンは殺し合いのイベントになってるかもしれない。ポッキーの日がないとみんなで楽しめないのか。ハレにするかケにするかは自分たちで決めてはいけないのか。

 

【神と信仰、虚構、イデオロギー、コミュニティ】

「神は死んだ」ニーチェキリスト教が嫌いだったんだろう。彼は戦争の時代に生きていれば戦争を否定していただろうし、現代に生きていれば資本主義を民主主義を法治国家を否定していたかもしれない。ただの世界が嫌いなひねくれ者だ。僕と似ている。僕はニヒリストにはなりきれない。全ての価値を無に帰せない。ニーチェだってそう。彼は生を肯定し、堕落する人を批判した。それはイデオロギーではないのか。その価値軸には根拠があるのか。彼が死にたくなかった、自分を肯定したかっただけじゃないのか。僕の家では両親が左寄りだった。ニュースを見ては安倍政権批判。母親は上野千鶴子祝辞をべた褒めしていた。両親の元で18年間育った。僕も左翼だ。抜け出せない。無理に抜け出さなくていい。だから弁護士志望。

イデオロギーに入ってしまう人は宗教に入ってしまう。僕の同クラは生まれた時から幸福の科学。東大でどれだけ周りから幸福の科学を否定されても頑なだった。彼女は東大を辞めた。否定した側がイデオロギー持っていないはずないのに。多数派か少数派か。少数派は排斥される。世界では無宗教の方が少ない。無宗教だと言うと、倫理を守る根拠を持たないアナーキスト、テロリストと思われることもあるらしい。日本人だけ信仰に否定的なわけではない。日本人は大抵みんな敬虔な信者だ。社会規範。世間様。結婚しよう。根拠のない自分への自信。他者への依存。メディアの作る流行。東大生に多い信仰は、フェミニズムだったり、人権思想だったり、市場原理だったり。個人主義を善とする人が東大には圧倒的に多い。みんな自分のことしか考えていない。自分勝手。彼らは助け合わなくても自分で生きていける人たちだ。僕は彼らに比べれば全体主義者だ。全体の幸福の最大化のために自分が不利益を受けなければならないこともある。ナチズム。ニヒリストになりたい。中立な視点から世界を見たい。「彼って思想強いよね」敬虔な流行信者が言う。「どうして宗教ってなくならないんですかね」意識高い系の熱に染まった人が言う。大川隆法も、堀江貴文も、東大を出ながら、権威に夢にすがる人から金を巻き上げる道を選んだ。そのコミュニティの人たちは幸せそうだ、否定はしない。僕もそのくらいちょろくなりたい。

社会の要請にしたがって生きるのは敬虔な信徒のやることか。それともみんな社会契約に基づいているのか。分業しているのか。僕は納得していない。なぜ繁殖しないといけない。なぜ進歩しないといけない。なぜ結婚しないといけない。なぜ多数派に所属していないと排斥される。野生動物と変わっていないのか。なぜ熱気に飲まれる、流行に飲まれる、人に寄りかかる、信仰に流される。人は野生動物とロボットとどちらに近いのだろう。紛れもなくケモノだろう。

科学だって、前提を公理を疑っていけば、人文学も社会科学も信仰でしかない。多数派が納得する思想・主張。理系の人は嫌がるだろうが、自然科学だってデータの解釈に人間が関わればイデオロギーに左右される。

 

虚構。虚構。僕の好きなパリ第8大学社会心理学小坂井敏晶准教授。東大出版から「民族という虚構」「責任という虚構」「神の亡霊」などを出版している。自由意志なんて存在しない。人は周りに雰囲気に流される。意思決定より先に信号伝達は起こっている。自由意志があるから責任が発生するんじゃない。何が「故意責任の本質は規範に直面しながらもなお実行に移そうとする反規範的人格態度に対する道義的非難」だ。気持ち悪いお役所的定義。大衆の怨念を沈めるため、誰かを見せしめにして罰する必要があるから責任という虚構を作る。人類はコロッセオでの殺し合いを楽しんでいた頃から変わっていない。神の亡霊。今までしてきたような話。すべては虚構。みんな信じたい。同一性を信じたい。自分たちは仲間だと信じたい。彼らは敵だと信じたい。神は死んでない。

 

【語り得ぬものについては沈黙しなければならない】

このウィトゲンシュタインの言葉、不可知論について言っているわけではないらしい。真偽命題で表せるかどうか。不可知論。僕は難解なウィトゲンシュタインとかハイデガーとかの哲学については沈黙しなければならない。法学の文献で意味がわからなかったことはない。文系学問で一番難しいのは紛れもなく哲学だ。哲学科はもっと尊敬されるべき。前のブログでも書いたが、僕の言語性IQは上位0.3%らしい。標準偏差15でIQ141標準偏差24でIQ166だ。どの心療内科に行っても、東大生を多く診ている所に行っても驚かれる。診察結果が自慢になってしまう。もっとIQが高ければ神の存在を知覚できるのかもしれない。そういう意味では不可知論者だ。そういえば僕の診察結果は変わった。地元の病院では発達障害ではないとのことだったが、東京の発達障害パーソナリティ障害の権威に診てもらった所、軽度ASDADHD傾向だという。素人にはわからないほど、社会生活もなんとかやれるほど軽微だが、見る人が見れば表情等に特徴が診られるらしい。友人に、「君は診断が欲しかったんだよね」と言われた。間違いない。

ASDというのは、霊長類研究で言う所の「心の理論」が欠如した人たちだ。群の他の個体の考え感情を言語によらず読み取ろうと想像する能力。脳のタイプなのか神経の異常なのか。三つ組の障害。社会性・社会的コミュニケーション・社会的イマジネーション。自閉症スペクトラムの中でも高知能な者たちは、後天的な学習でカバーできるらしい。僕はコミュ強だと言われる。ただ少し正しさへのこだわりが強すぎたり、飲み会やクラブでも一人冷めきっていたり、ごっこ遊びができなかったりするだけだ。信仰に入れない。超越者のいない所に超越者の存在を措定するには心の理論が必要だ。ADHDは僕の場合多動はほぼない。ストレス環境下で少し癖が出る程度だ。注意欠陥の酷さは親しい人は知る所だ。感覚過敏がここ数年ひどい。ストレスが悪化すると騒音が無理になる。受けるストレスが多くなる。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。僕はイマジネーションの障害を抱えているらしい。僕は他の人の心の中について沈黙しなければならない。クオリア。僕の見ている赤色とあなたの見ている赤色は同じですか。暗闇のリンゴは赤色ですか。僕の見ている世界とあなたの見ている世界は同じですか。僕の見ている世界に神はいなくてもあなたの見ている世界に神はいるのでしょうか。僕は認識論には興味があまりない。哲学を専門に学んでいるわけではない。これ以上聞きかじり素人知識で哲学系用語を使うと哲学の人から殴られる。

 

【多数派と少数派】

少数派は排斥しよう。彼らは危険因子だ。動物の生存戦略。人間はどこまでケモノであろうとするのだろう。ロールズは無知のヴェールを被れば全ての人の被害損失が最小になるシステムを選択するはずだという。全体の生産量を最大化するための格差の肯定。現行システムへの後付け理論補強に熱心だ。僕は90%の確率で強者に生まれ10%弱者に生まれる場合にシステムを選択しろと言われたら、強者の利益を最大化できるシステムを選択する。昨日「キングダム」の実写映画を見た。戦乱の世。自然状態。女性は2人しか出てこない。筋肉。身体能力。剣術。自然状態。僕は法治国家に生まれている。一定数の女性は筋肉質な、危険から守ってくれる異性を選好するらしい。ホモ・サピエンスはケモノなのだろう。まだ法治国家になって日が浅い。少数派が権利を主張できるのは法治国家だからだ。人権なんて実在しない。奴隷に人権はなかった。平民の権利も女性の権利も闘争で獲得されたものだ。我々精神障害者は闘争できる気力がないから人権を獲得することはない。フリーライダー、落伍者、理解の及ばない異質な迷惑な人たちとして蔑まれ続けるのみ。力が必要だ。法治国家の前提は数の暴力だ。人々の怨念だ。奴隷道徳。筋肉をつける代わりに法律の素養を身につけろ。自分の身を守れ。法律の勉強をしろ。法廷以外の闘争は何も生まない。そういう風にできた。先人たちがそういう風にした。数百年後どうなっているかはわからない。僕は今の世に生きている。金と権力が身を守る術。筋肉と金がセックスアピール。根拠のない自信をみなぎらせた男が性欲ベースの優しさを発揮して拠り所のない女性を甘言で誘う。生存戦略。ヒトは所詮ケモノだ。

 

【自己愛、自尊心、依存】

健全な自己愛とは多数派が育んでいる自分に対する信仰だ。他人には社会規範で流行の価値軸で好悪をつけるくせに自分のことはなんだかんだ理由をつけて肯定する。みんな自分が好き。認知の歪みってなんだ。正しくない認知が正常な認知なのか。「あんな素晴らしい人と同じコミュニティにいるから自分は素晴らしい人間だ」「あんな人に比べたら自分は素晴らしい人間だ」「あの人が好きと言ってくれるから自分は素晴らしい人間だ」」「自分は頭がいいから素晴らしい人間だ」李徴の言う「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」臆病でない揺らぎのない自信を持っている人というのは、社会多数派の価値軸で高評価を得ているイケメン美女高収入か、そうでない人は皆自分への狂信者だ。正しくない認知。頭の良さを大事にする人はバカを貶す。美への努力を怠らない人は自己管理の甘い人を貶す。筋肉を大事にしている人は貧相なやつを貶す。成長を大事にする人は堕落を貶す。貶す。貶す。自慰行為。示威行為。マウンティング。みんな、自尊心に根拠がないから必死だ。闘争だ。生きることは自尊心を保つことだ。他人をけなせ。闘争だ。戦争だ。勝てば官軍。自尊心を保ったものが善だ。声の大きいものが勝つ。いつまで宗教戦争をしているのだろう。

依存先を増やすことが自立だと人は言う。家族へ、恋人へ、親友へ、先輩へ。自分のスペックに寄りかかれないなら、他人に承認してもらって自尊感情を保つしかない。嫌いなとこもいっぱいあるけど私はあなたが好きだよ。出会った頃の熱は冷めたけど長い時間をあなたにかけたコストを肯定したいから、子供がいるから、私はあなたが好きだよ。あなたは私のことを愛してくれるから私はあなたのことが好きだよ。共依存。何が、「お互いに一人でもやっていける男女が、一緒にいると楽しいことが増えるから一緒にいる」だ。一人でやっていけるってなんだ。寂しさに襲われる夜はないのか。自分への狂信者なのか。僕にはそんな人の気持ちはわからない。語り得ぬもの。

 

【自殺論と東大法学部】

僕はデュルケムを休学中読めなかった。利己的自殺。自己本位的自殺。社会凝集性が低いと自殺は増える。東大法学部。友人が一人死んだ。その話を聞いた別の友人は、「東大法学部のシステムの欠陥だよ。」違う。あそこを砂漠にしているのは法学部生の忙しさだ。個人主義だ。助け合うより自分一人でやる方がパフォーマンスが高い人たち。僕たちの忙しさは彼を殺した。東大法学部にはサークルが2つしかない。ゼミはコミュニティになり得ない。2つのサークルに適合できないものには居場所がない。大半がぼっち受講。ぼっち受講が数百人。闘争しろ。上位3割の優を取れ。GPAはいくつだ。生き残れ。レールから外れるな。初対面の法学部生に会うと進路と成績を聞かれる。「彼は全部優でめちゃめちゃ優秀なんですよ(そんな彼と仲良くしている自分も偉い人間なんですよ)」予備試験に受かれ。ゴールドマンサックスの内定を取れ。教養区分で受かれ。財務省経産省に外務省にいけ。法務省は落ちこぼれの行くところ。うるせえ。更生保護は法務省でしかやってねえ。僕は法務省インターンにいく。

 

 

 

僕はレールから外れた。来年も4年生。1年ぶりに会った人たちは一瞬声をかけてくれる。「おお!久しぶり!珍しい!」一拍おいてタスクに就活に司法試験に戻る。そんなところだ。彼らは走り続ける。僕は徒歩で行こうかな。両親が健康なうちに経済的自立を果たせればそれでいい。

 

 

追記:何点か訂正や補足があるので

 

も合わせてお読みください

成人知能検査を受けたって話

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作品の備忘録ではないですが、割と珍しい体験をしたので書き残しておきます。

 

私ぴたぱん、医師の勧めで心療内科でWAIS-III(ウェクスラー成人知能検査)を受けました。ズバリ、IQを正式に測ったわけです。

知能検査、アメリカではギフテッドを見つけて才能を伸ばすためなどに結構受けてる人が多いそうですが、日本では知的障害や発達障害の検査目的でしか使われません。みなさんも児童向けの知能検査は小学校のころなどに受けられたんではないでしょうか。

 

WAIS-Ⅲ、保険適用で1500円程度(僕は1500円でした)、保険適用されなければ2~3万円かかるようなので、3万払ってもいいという方は是非受けてみてください笑

 

以下、私の結果です。

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まずIQについて軽くお話しすると、テレビやネットでよく見る「これが解ければIQ◯◯!」みたいなのは信ぴょう性は皆無です。さらに、IQの表示は標準偏差15と標準偏差24で表されることが多いのですが、テレビなどでは標準偏差24で表されていますね。(テレビで見る芸能人のIQは、正式に測ったものではないか、MENSA試験のような行列推理のみで測定したものだと思われます。)

標準偏差15で、IQ 80~120の間に85〜90%の人が該当するように作られているそうです(医師談)

 

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出典:

別冊:知能指数(標準偏差15,16,24換算表)と出現率をエクセルでまとめてみた。 : チャーリーのブログ

 

MENSAについても軽く触れておきましょうか。人口上位2%(標準偏差15だとIQ130以上、標準偏差24だとIQ148以上)のものが会員になれる、著名人が多く会員となっている国際的組織ですね。以前、大学の友人たちと上野公園で花見をしていたら、MENSA会員だという酔っ払いおじさんから会員バッジを見せつけられながら絡まれました(苦笑)

MENSAの試験は、行列推理に偏った簡易的な知能検査です。

以下、ネットで公開されているノルウェーMENSAの試験です。(多分)

Mensa IQ Test

 

 

さて、上の画像であげた僕の結果です。WAIS-IIIは標準偏差15です。

全検査IQ 130

言語性IQ 141

動作性IQ 110

 

群指数

言語理解 141   知覚統合  114    作動記憶 128      処理速度 110

下位検査項目 高いもの 単語 19点(満点)

       低いもの 絵画配列 9点 絵画完成 8点

 

いい知らせと悪い知らせがある!(アメリカ映画風)

 

いい知らせ:

ADHD傾向が疑われて、検査を受ける運びにはなったのですが、作動記憶(ワーキングメモリー)は問題なく、「大して気にするような結果ではない(医師談)

・「君、めちゃめちゃ知能高いよ。東大生でも君より知能高い人なかなかいないよ。昔、WAIS試験を東大文一生に受けさせた時は平均がIQ118だったんだ(医師談)

上の表によると、僕の全検査IQは上位2%、言語性IQに限れば上位0.3%です。

言語性IQに限って、標準偏差24に直して、

俺のIQは166だ!!!!!!!

とイキり散らすこともできるわけです(苦笑)

東大法学部生として、東大受験生を教える国語講師として、安心できる結果ではありました。行列推理の成績もいいですし、この結果を提出すればMENSAには入れるでしょう。(会費がもったいので入りませんが)

 

 

・悪い知らせ

非常にアンバランス

言語性IQと動作性IQの差が10あると有意差とみなされるんだけど、君は30もあってこれはなかなか珍しいよ(医師談)」

wikipediaなどで調べると、言語性IQと動作性IQの差(ディスクレパンシー)が15以上だと発達障害が疑われ、差が大きいほど障害の程度が大きいそうです。

 

 

気にしなくていいって言わなかった??????

 

僕が特に低かった絵画完成や絵画配列は、言葉を使わずにイメージを把握したり覚えたりする能力です。これが低いため、「生活場面の細部を見落としやす」いと評価されています。今まで携帯に財布に定期に傘にと何度も紛失し、通院しても帰るまでの道のりで薬を失くし、自分で食べこぼしにも気づかなかったりする僕の特性が現れています。

サークルで「鈍すぎる」と評されるほど、言葉に表されない「◯◯と△△はお互いに気がある」とか、空気を読むとか気を遣うとかいうことが非常に苦手ですね。

 

語音も低いです。これは、ひらがなと数字を口頭で一気に言われて、それをひらがなは五十音順、数字は小さい順に並び替えて復唱する検査です。

激ムズでした。10問くらいあるうちの6問目以降は桁数が増えすぎて放棄していました。これに現れている僕の特性は、「2つのことを同時に聴きながら処理するのが苦手」です。ノートをとると授業が聞けなくなったり、電話を切った時には電話相手の名前を忘れていたりする僕の特性が現れているんでしょうか。(素人意見です)

 

 

まとめ

発達障害ではないだろう(?)とのことでしたが、期待される能力が高いぶん、ミスが目立つことなどがあるだろう、ということでした。

(人間関係において、「頭いいのになんでこんなこともわかんないの?!」ってキレられたこと何度かあります)

 

自分の特性を把握し、苦手なことは道具や人の助けを借りながら補っていこうと思います。 

 

新井紀子 「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」

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AI vs. 教科書が読めない子どもたち 新井紀子 東洋経済新報社 2018年

軽めの本です。

 

「シンギュラリティなんて到来しない」

 

そう言い切るのは、ご存知「東ロボくんの母」こと新井紀子氏です。

東ロボくんをご存知ない方は、以下の新井さんがTEDで話したプロジェクトと結果のプレゼンをお聞きください。2016年ごろにメディアで結構話題になった、「ロボットは東京大学に合格できるのか」という国を挙げたプロジェクトのチームリーダーをやっていた方です。

www.ted.com

 

新井さんは非常に経歴の面白い方で、一橋大学法学部を卒業後、イリノイ大学で博士課程まで進み専門を数理論理学として理学博士も持っていらっしゃる方です。

副専攻としてピアノを学んでいらっしゃったり、この東ロボくんプロジェクトのあとは教育方面に力を入れたりしている(理由は後述します)多方面に活躍されている方です。

 

私がこの本を読もうと思ったのは、東大法学部生として東ロボくんに興味があったのももちろんですが、文系の僕には人工知能がどういう仕組みで動き、今後どのように進化していく可能性があるのか全く判断がつかず、巷を騒がせている「シンギュラリティ」「AIに仕事が奪われる」といった言説の信ぴょう性がよくわからなかったからです。

 

本の内容に移りましょう。東ロボくんプロジェクトは、「AIの限界を探るため」のプロジェクトだったと言います。実際、2016年に「東ロボくんには東大に合格することは不可能」として終了したこのプロジェクトですが、模試ではMARCH合格レベルの偏差値までは到達しています。

(「MARCHレベル以下の頭脳労働なんて現時点でもロボットにできるんだよ」とそのまま変換するのは早計ですが、分野を絞れば、ロボットに代替され得る職業が非常に多い、ということです。)

「東大には合格できない」という結論だったわけですが、ニュースを追っていた当時、東大生の僕でも戦々恐々としました。東ロボくん、あの世界史の大論述を人間が作ったみたいな文章でスラスラ書くんです。

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現時点の技術で、何がロボットにできて何がロボットにはできないか。この本では僕のようなプログラミングや機械工学、大学数学の知識が全くないものでもわかりやすく、かつ詳細に語られています。

 

僕がざっと掴んだ範囲でいうと、法学をやっているといやでも実感しますが、コンピュータコンピュータといっても、法律上の呼び名は「電子計算機」です。なんでもできる魔法の道具ではありません。ただの計算機です。つまり、数学でできないことはコンピュータはできないしAIもできないのです。

数学でできることとは何か、論理(論理学でいう演繹ですね)、統計・確率(論理学でいう帰納ですね)です。論理的に演繹できること、統計で傾向をつかめること、確率を割り出せること以外はAIにはできないのです。

 

具体的な話をしましょう。東ロボくんはセンター試験型問題において、世界史は情報検索、数学は演繹で好成績を収めました。しかし東ロボくんに苦手だった科目があります。英語と国語です。コンピュータには計算はできても意味を読み取ることはできません。国語は、「傍線部と前の段落に出てきている回数の多い単語を含む選択肢を選ぶ」のような戦略でせいぜい5割、英語に至っては、150億の英文を学習させても目覚しい成果は出なかったそうです。

 

ロボットは意味を理解できない。その上、「常識の壁」に阻まれます。

いちいち教えないと、「暑い時には寒くない」「ドアは開かなければ開かない」というようなことを理解できないのです。そのため、ロボットは「将棋の名人には勝てても、近所のおつかいにすら行けない」とも言われたりします。

 

今後、多くの職がAIに取って代わられる可能性は高いです。「半沢直樹はいなくなる」そう新井さんは言います。しかしながら、「シンギュラリティ(技術的特異点)」すなわち、汎用人工知能が完全に人間に取って代わる日はこないと新井さんは断言します。

 

 

この本のさらに面白い点は、タイトルにもある「教科書を読めない子供たち」の話です。東ロボくんプロジェクトと並行して新井さんは基礎的読解力調査、RSTを文部科学省と協力して実施し、国語の模試や試験で問われるような「難しい文章を読解する能力」ではなくて、「そもそも教科書の文章を中高生は読めているのか?」を調べています。(累計2万5千人のデータをとったそうです)

 

詳しい調査結果は本を読んで欲しいのですが、例えば、「原点oと点(1,1)を通る円がx軸と接している」状況を示す図を選びなさい、という4択問題。

みなさん、頭の中に思い浮かびましたか???

この問題の正答率は、

中学生正解率、19%(中3は25%)  高校生正解率、32%(高3は45%)

・・・あれ、4択って鉛筆転がしても25%は当たるんじゃ・・・

 

他にもこのような驚愕のデータがたくさん挙げられています。

日本の未来が不安になってきますよね。

なぜ新井さんはこんな調査をしたのか。

先にも触れたとおり、AIは意味を理解できません。読解ができないのです。じゃあ、AIに代替されないためには人間は読解ができなければいけませんよね。じゃあ、「AIは読解が下手」って散々馬鹿にしてるけど人間は読解ってできてるの?という調査です。

 

この後、新井さんは読解力養成の方に力を注がれているようです。

 

 

 

 

ここまでが本やTEDの内容で、ここからは私の持論です。

 

僕は東大法学部生です。東大受験生を教える塾で国語の講師も2年間していました。受験を知り尽くしているといっても過言ではありません。他の東大生と人工知能によって変えられる未来について議論したり、これからの教育のあり方について議論したこともなんどもあります。

 

 

しかし、

そういう議論の前提って色々間違ってたんじゃない?????

 

文科省とかに進む「読解なんか当然できる」東大生たちが良かれと思って教育改革をしたところで、「その教科書って中高生読めてない可能性あるんじゃない??

経済学部とかの、「シンギュラリティが〜〜」「これからのビジネスは〜〜」とか偉そうに語ってる東大生、人工知能のことわかってそんなこと言ってんの???

 

僕は、前提を疑わない人、流行している言説を鵜呑みにする人、そんな人たちが「東大生」に多いこと(僕もその一員です)にこれからの日本が不安になっています。