ぴたぱんの備忘録

物語と人が好き。本とか映画とかドラマとかゲーム実況とか漫画とかアニメとか。触れた直後の想いを残しときます。

すべての孤独・孤立は"救われるべき"なの?

いきなり記事タイトルに対して結論から申し上げますと、試験に受かるためには自分の本心に反して「すべて救われるべき!」とメサイアコンプレックス丸出しで行ったほうが戦略的です 大事なのは試験で評価されることで、アカデミックなことではないのですから

以下はドツボにはまった私の思考過程をつらつら連ねた駄文です

進んで孤立を選ぶ人々

「人生は冒険や!」「不登校は不幸じゃない」でおなじみの某少年革命家ももうすぐ14歳になるそうです そのうち義務教育を終え、不登校少年革命家ではなく中卒青年革命家になるのでしょうか 彼と親御さんの今後に注目です

 

今年度の強要区分二次の企画提案テーマ、例年にもまして「そもそもなんでこの分野の対策をすべきなのか」の答えを出すのが難しいテーマだと感じています(1週間前になって気づくな)

 

冒頭に挙げた少年革命家は特異な例に見えるかもしれませんが、「進んで不登校を選んでいる」「学校だろうとフリースクールだろうと人と社会生活を送る場に出るのがストレスだ」といって孤立を選ぶ不登校生徒は一定数いると思われます

アメリカなどホームスクールが法制度としてある国においても、不登校は「解決すべき孤独・孤立」として位置付けられているのでしょうか 

地元にいて今年90を超える私の祖母は、独居高齢者でありますが、「ひとりがいい」と子や孫との同居を拒んでいます 僕が祖母を実家に無理やり連れていくのは善なのでしょうか

内閣官房 孤独・孤立対策の重点計画 より引用

 

「孤独」が主観的なもの、「孤立」は客観的なものと一般に定義されるそうですが、上記のような例は「『孤立』しているが、『孤独』を感じていない」にあたるのでしょうか  

対人関係に苦手意識・トラウマ等があって孤立を選んでいる方の中には、「孤独は感じているけれども、対人関係のある社会生活に入った方が幸福度が下がるから進んで孤立を選んでいる」方もいそうです (私もややその傾向があります) ASD傾向のある人、対人恐怖症の人、不安障害のある人等々、「そもそも社会生活全般が苦手なのだから、学校や職場はもちろんフリースクールでもデイケアでもジョブカフェでも行きたくない」と感じるでしょう

 

本人は孤立を選んでいるが、家族が困難を抱え、家族は本人に社会生活に入ってほしいと望んでいる場合もあります この場合、本人の自己決定を尊重して介入しないべきなのでしょうか 家族の意思を尊重して介入するべきなのでしょうか

www.youtube.com

そもそも医療福祉教育分野でこんなにも本人の自己決定権と衝突するパターナリズム(父権主義)的介入が許されているのってなぜでしたっけ そもそも義務教育ってなんで(保護者に対する)義務にできるんでしたっけ? 学校教育法16条、17条で親は子を小中に就学させないといけないってしてるんでしたっけ?

独居高齢者の孤独死、増えています 若年無業者の割合、増えています 小中のひきこもり、増えています 中高年のひきこもり、増えています 

もし全員が社会参画を望んでいるならば解決すべき課題です。しかしこの中には一定程度「進んで選んでいる孤立」が含まれているはずです 前述の「対人関係全般が苦手」の人だと「気は進まないが選んでいる孤立」といえそうですが、これは解決すべき課題なのでしょうか

明確に課題なのは「進んで選んでいない孤立」「孤独」でしょう。「進んで選んでいる孤立」は家族が社会参画を望んでいる場合に、という留保付きで議論の俎上に乗る気がします 「気は進まないが選んでいる孤立」はインターネット等の活用で自分の苦手のない形で社会と関わることはできそうですが、実際に場に赴いて社会と交わることが本人にとっていいのかは疑問の余地があります

 

(補論)「望まない孤独」という語の意味

さきほど引用した「孤独・孤立対策重点計画」では、「望まない孤独」及び「孤立」を対象にして、と記載があります 「望んでいる孤独」もあるのでしょうか。進んで寂しいと感じたがる人がいるんでしょうか。

ググったら大空幸星さんという方の造語らしく、この方の提言で孤独・孤立対策担当大臣設置につながったらしい。すごい方だ。

 

 

引用元:https://mainichi.jp/articles/20210421/k00/00m/040/367000c

「望まない孤独」という限定をつけるからには「望んでいる孤独」もあるのでしょうか この記事によれば「孤独を愛せ」「孤独が人を強くする」のような「一部の人に肯定的に捉えられる孤独」と区別するための語句のようです

つまり、「望まない孤独」=肯定的に捉えようのない主観的寂しさ

ということのようです 

「望まない」という字面からは私が上記で孤立を「進んで選んでいる/選んでいない孤立」「望んでいない/望んでいない孤立」と自己決定に基づいて分類したものと近い分類の仕方なのかと思ってしまって「主観的寂しさを進んで選ぶってなんだ???」と混乱していましたが、

「受け入れ得ない」のか「受け入れ得るのか」、もっと雑に言えば「いいものか」「悪いものか」のような分類をしている語のようですね 「望まない孤独」=「悪性孤独」のように言い換えた方が個人的には理解しやすいです この意味なら「望まない孤独」とするより「望まれない孤独」の方がわかりやすくない?

 

孤独・孤立を対策して何を実現したいの?

企画提案でもGDでも目標や理想像は肝心です。 なぜなら、それまで議題にしていた政策よりも、目標を達成できる、よりよい手段があるならそちらをとった方がいい、となるからです

A.経済成長

B.将来の社会保障費増大の防止

C.国民個々人の生活における幸福の実現

D.少子高齢化の抑制

(友人のツイートを参考に)パッと思いつくものを挙げてみました

Aについては、「若年無業者や中高年のひきこもりが就労したとして、経済への影響って数%じゃない?効果に見合わない費用かけてない?労働意欲のある失業者に職見つけるのが先じゃない?」となるので、違いそうです

Bについては、ややありそうです ひきこもりや若年無業者の方の親が亡くなった場合、生活保護など税金で支えることになる可能性が高いです ただ、独居高齢者の孤独対策は「心身健康に長生きしてほしい」ようなので、社会保障費を減らそうという方向とずれる気はします

Cが現行の施策を見るに政策目的としては個人的には一番納得いきます 日本全体の富のための施策というより、個人のwell-beingのための施策だと考える。ただ、目的がCとするなら後述の「幸福を政府が決めるのか?」「孤立するのが幸福な人はどうすれば?」のような問題が発生します

Dについては、若年無業者不登校、ひきこもりのように若者が社会参画しないと出生数が減ってしまう、という考え方です ただ、そこがメインなら独居高齢者や中高年のひきこもりは対象に含まない気もします

 

前述の大空幸星氏の発言等を見ても、国富を考えているというよりは個人を見た施策のようなので、Cと考えるのが妥当でしょうか。公的資料に明記してあるよ、などあったら@pita_utlawまで伝えていただけると喜びます

そしてCだと考えると、「幸福ってなんなのか政治行政が決めるの?」となってきます

 

幸福ってなんだっけ? ー法哲学に触れながらー

幸福とは何か?という問いは古来から哲学で問われ続けてきた類のもので、近年では以下の3つの陣営に分けられます。

①快楽説→快を得られれば幸せ

②欲求充足説→望みが叶えば幸せ (自己実現欲求等も含む)

③客観的リスト説→客観的に見て"善い"状態であれば幸せ(リストの例:健康、自由、友人)

わかりやすい例として挙げられるのは、「禁煙をするのは幸福か?」という命題。

快楽を得られていないので①の説からすると不幸だが、望み「禁煙したい」を叶えられているので②の説からすると幸福、③の説からすると健康になるので幸福、となる

「(進んでやっている)薬物/アルコール/ニコチン中毒者は幸福か?」という命題。

快楽を得られているし望みを叶えられているので①②からすると幸福、健康を害しているので③からすると不幸、となります

若干幸福の定義の文脈から逸れますが、快楽功利主義の論点でロバート・ノージックは「経験機械(最高の快楽・経験を約束する機械)に死ぬまで入っていたいか? いや、多くの人は入りたがらないだろう」と主張します。私個人は入っていたい側なのですが、読者の方はどうでしょうか。

 

強要区分の話に戻りましょう。

「進んで選択している中高年のひきこもりは幸福か?」という命題を考えてみる 快も得られているし本人の望みは叶っているので①②からすると幸福だが、客観的に見て"善い"とされる状態ではないので③からすると不幸である 親も自分が面倒を見られなくなった後のことが心配で、親・家族の幸福度も下げていそうである

 

「少年革命家は幸福か?」を考えてみましょう。

①:クラウドファンディングして日本一周したりしているのは楽しそうだが、インターネットで叩かれていることも多く本人が主観的に快と感じられているかは不明

②:「本人の望み」に親の影響が強い小中学生が「望み」を果たすことで幸福とされるのか、欲求充足説をよく調べてみないとわからない、現時点では不明だ

③:彼の状態は客観的に見て"善い"のか?「youtubeチャンネル登録者15万人で世間的知名度も高い、支持者もいる」と切り取れば"善い"といえそうだ 「学校に通っておらず(実は通ってるなんて話も聞くが)九九など義務教育が怪しく、側から見て将来が不安である」と切り取れば"善い"とは言えない ③についても判断がつかない

彼の場合、親も彼の不登校の状態を望んでいるようだ 彼とその家族に行政が介入すべきなのか?

youtu.be

リベラリズムパターナリズムリバタリアンパターナリズム

リベラリズム(自由主義):個人の自由を重んじ、他人に危害を加えていない個人への他(政治や親など)の介入を許さない。J.S.ミルのような古典的な自由主義をここでは指す。(cf.危害原理)

パターナリズム(父権主義):強い立場の者が、弱い立場の者に対して(親から子、教師から生徒、医者から患者、政府から国民等)弱い立場の者の利益のためだとして積極的に介入する立場

1人で望んで(誰にも迷惑をかけず)堕落・孤立・不健康になっていく人がいたとして、そこに介入していくのはリベラリズム的にはNO、パターナリズム的にはYESです

(このあたりに興味のある方は、「ハート=デブリン論争」などで調べてみてください)

 

リバタリアンパターナリズム:本人に選択を任せつつ、(社会的・客観的に善いとされる方向へ)誘導する立場

例:デフォルト・ルール→"望ましい"選択肢をデフォルトとしつつ利用者に選ばせる

フレーミング効果→「この手術を受けると100人中10人も死亡しています」と伝えるのではなくて、「この手術を受けると100人中90人も生存しています」と伝えた上で患者に選ばせる

関連:ナッジ(行動経済学):相手の背中をそっと押す

例→2000円以上で送料無料!→消費量が増える

看板や口頭、本の平積み等で販売者からオススメを伝える→その商品の購入が増える

 

3つの立場を紹介しましたが、孤独・孤立にはどの立場からアプローチするべきなのでしょうか

リベラリズムの立場からすると、嫌がる対象者に行政から「学校に行きませんか」「あなたは生活保護の申請をするべきです」と毎日訪問したりして介入するのは良くなさそうです

逆にパターナリズムの立場からすると本人の就職・幸福に最終的につながるのなら嫌がっていようが引っ張ってでも介入していくべきです

リバタリアンパターナリズム的なアプローチはどういったものがとれるでしょうか。

生活保護は恥ずかしいことではない」ことを伝えるために、生活保護のポジティブなキャンペーンを行う

ジョブカフェデイケアフリースクール、学習支援センター等の社会的活動の場のポジティブキャンペーンを行う

自分の小さい脳みそではこの程度しか思いつきませんでした

 

逆に、「(税金を使うから)社会保障サービスを使われないように誘導する」という行政もあります。今学期受けた行政学の授業で「生活保護申請窓口を掲示板などで隠して暗くして申請されないようにしている」事例が紹介されました。

 

私個人は、個人の自由意志に反する介入はしてほしくないし、自由意志を操作・誘導されるのも嫌なのでリベラリズム、つまり「望んで客観的に見ると不幸な方向に向かっている人はほっといてあげるべき」という立場です

 

そうはいってもやはり孤立には対策をすべき?

この記事を書いている途中に、FFの方が(おそらく独居高齢者を主に念頭に置いて)「社会と交わりたくない人は無理に交わる必要はないが、緊急の時に助けを求められないのは問題だからそこは別に施策が必要」という旨のツイートをされていました

なるほど、と思いました

社会と交わりたくない独居高齢者にしろ、独り身の中高年のひきこもりにしろ、一人暮らしの学生のひきこもりや一人暮らしの若年無業者にしろ、突然倒れると孤独死してしまう可能性が高いです。かくいう私もこの危険性を常に親から心配されています。

原理的リベラリズムからするとこれにも介入はしないべきなのでしょうが、私個人は「それはさすがに介入すべきだろう」と思います

郵便局員や宅配配達員による独居世帯の安否確認、独居高齢者の家への「見守りカメラ」の設置程度は、本人が嫌がったとしても家族が望めばしたほうがいいのではないでしょうか

ただし、これは私の立場であり、それに対しても介入しないべき、という立場ももちろんありえます

 

試験に受かる戦略的態度

「こいつめんどくせ〜〜〜〜〜〜!!」と読者の方は思われたでしょうか。そう思う方は最初3行くらい読んでブラバしているでしょうか

こんなつらつら書いたようなことを企画提案試験で5分使って喋ったらもちろん落ちます。1分使って法哲学の議論を簡潔に紹介できたとしても施策の説明に時間を使ったほうが評価されそうです。

個人的に「介入しないべき」と思っていたとしても「介入して救うべき!」と主張するしかないです それに基づいて企画提案は考えましょう

カーボンニュートラルって政府方針には反対で〜」「そもそも二酸化炭素は火山からの排出が多くて〜」「二酸化炭素より水蒸気の方が温室効果が高くて〜」「EVの推進ってのは環境保護を隠れ蓑にして欧米が日本を自動車市場から蹴落とそうとするキャンペーンで〜」みたいなことを企画提案やグルディスで言ってくる受験生がいたら、あなたが試験官なら落とすでしょう

 

企画提案試験は就活です!論文ではありません!

「御省が第一志望です!」「御省も第一志望です!」「私は国の方針に全て賛同しています!」「政治主導最高!」「官邸主導最高!」「すべての議員の先生方を心から尊敬しています!」

胸に刻んで二次試験・官庁訪問に臨んでいきたいと思います

 

※最後まで読んでくださった方、お付き合いいただきありがとうございました。こういう私の駄文に興味がある方は、当ブログの過去記事も見ていっていただけると嬉しいです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「言葉にしたくない」という感想 〜藤本タツキ『ルックバック』に寄せて〜

shonenjumpplus.com

チェンソーマン』『ファイアパンチ』などで知られる藤本タツキ氏の新作読み切り『ルックバック』が話題を呼んでいる。

本日2021年7月19日午前0時ごろに公開され、夜中にも関わらずtwitterなどで騒然とした。午前10時ごろにはTwitterトレンド1位となり、午後6時ごろに確認したときもトレンドトップ30には入っていた。2020年覇権といえるほど週刊少年ジャンプの『チェンソーマン』が人気を博したとはいえ、ネットで読める漫画のしかも読み切りがここまで話題になるというのは異例のことだ。

まだ読んでいない方は是非上記リンクから読んでほしい。少年ジャンプ+で期間限定(いつまでかはわからないが)無料公開中だ。(公開期間外に本記事を読んでいる方には申し訳ない)

少し長めの読み切りではあるが、一コマ一コマ丁寧に、文字だけでなく絵の細部の描写、ひとりひとりの表情、一枚一枚の新聞の記事から壁に貼ってあるものまで丁寧に見て、味わって、読んで欲しいと思う。

 

 

※以下、極力避けますが紹介するツイートなどで『ルックバック』のネタバレを含む場合があります。

 

読んでいただけただろうか。

 

読後の私の感想はーーー言葉にしたくない というのが正直なところだ

 

もちろん、言いたいことは色々ある。ネタバレにならない範囲で言えば

「圧倒的だった」「鳥肌が立った」「『チェンソーマン』や『妹の姉』より好きだった」……

「…の〜なシーンは〜」と詳細に語ろうと思えばできるのだが、それをしたくない。その言葉から漏れていくものが、その言葉で定着させてしまうことが作品を、読後の自分の感情、情動を矮小化して陳腐なものにさせやしないか、強い言葉で言えば冒涜になるのではないか、そんな思いを抱いた。

 

読んでみて、「自分には別にこの『ルックバック』刺さらなかったな」と思う読者の方もいるかもしれない。そういう方は最近自分がそういう「筆舌に尽くし難い情動」を抱いた経験を思い起こしてみてほしい。

私の場合、最近では『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見に行ってラストの「終」の字を見た瞬間だったり、ヨルシカの「春泥棒」のMVを見終わった瞬間だったり…

www.youtube.com

もちろん、シンエヴァは通常でも4DXでもIMAXでも見たし、パンフレットも買ったしネットやはてブの感想も考察も批評も無数に読んだ。1週間ほどシンエヴァのことしか考えていない期間もあった。春泥棒だって飽きるほど聞いて焼き切れるほどMVを見てコメント欄に連なるポエミーな感想の数々にも目を通した。それでも、ブログに感想を書くことはもちろん、感想ツイートもろくにしなかった。言葉にしたくなかったのだ。

自分で書いて言葉にするとなると先行作品群を踏まえた批評的な分析も、歌詞に含まれた言葉遊びを指摘するのも、自分の体験に引き寄せてポエムを書くのも、率直な感想を書くのも、全部"違う"のだ。

俗に言う「ボキャ貧😇」というのとも違う。(個人的には「ボキャ貧」と言われる文脈では語彙の多寡ではなく言語センス、言語運用能力のなさを嘆いてる場合が多いと思うので「言語能力貧😇」という方が近いのではと思うが)

たとえ自分に文豪の言語センスがあったとしてもこの感情を言葉に定着させたくない。

 

 

『ルックバック』にしてもそうだ。twitterにも、はてブコメントにも、肯定的なものも否定的なものも含めて、数多くの感想が溢れている。

「天才」「泣いた」という率直な賞賛もあれば、「信者が気持ち悪い」「過剰に評価されすぎだ」という厳しい意見もある。

藤本タツキ先生独特のカメラワークや文字よりも絵で魅せる技巧、途中で「ifの世界線」を入れた手法や、タイトルの『ルックバック』が漫画内の四コマ「背中を見て」であり、漫画内の服の背中に書かれたサインであり、過去を振り返るlook backであるということ、OasisのDon't  Look Back In Angerやその他私の詳しくない映画など他作品のオマージュについて言及しているものなど、テクニカルなところに言及してバズっているツイートも多い。

また特に目につくのが7月19日という、2019年7月18日の京都アニメーション放火事件から2年の日の翌日に公開されたこと、『ルックバック』作中の事件と京アニ事件の類似性や前述の「Don't Look Back In Anger」がテロ事件のアンセムとして有名なこと等から京アニ事件と結びつけた論評だ。

 

違うのだ。全部、違う。少なくとも私にとっては全部違うのだ。

読後に感じた作者の溢れる才気を「天才」なんて凡百に使われる言葉で形容していいのか。このクソデカ感情を「泣ける」なんてのっぺりした表現で表していいのか。

私が感動した核の部分は決して細かな技巧的なところではないし(もちろん読みながら表現に感嘆はするが)、この作品を京アニ事件をことさらに引き合いに出して社会派な捉え方をするのも違うのだ。

 

 RTの多いこの感想を見た時「えええええええええええ!?!?」と仰天した。もちろん「見せかけて」と言っているからツイ主は「百合のバクマン」と表現することが本旨ではないだろうが、私にとっては藤野と京本の関係性は決して「百合」という言葉で形容されるべき関係性ではないし、『ルックバック』の中の主人公たちと漫画との向き合い方は『バクマン。』とは月とスッポンというか、似て非なるものすぎて。あり得なかったのだ。『ルックバック』を表現するときに『百合のバクマン』なんて文字列が飛び出てくるのは。

 

 

 いや、わかる。この人の言いたいことは。「これは文学」「これは純文学」という褒め言葉には、(発した人に悪意はないだろうが)「純文学(文学)は高尚なもの、SF小説や漫画は低俗なもの」という価値規範が見え隠れしているし、なにより藤本タツキ作品は漫画の中でも特に小説ではできない「言葉によらない表現」を大事にしているのだから、「言語による作品」の最たるものである「文学」として褒めるのは違うのだ、と。

まあこの褒め言葉を言った人自身はそこまで考えていないと思われるので責めないで欲しい。

 

言葉として定着させるということは、(特にtwitterのような限られた文字数の中では)誤解を受けやすいし、「天才」にしても「純文学」にしてもその言葉を使って褒めた瞬間に書き手の抱いた情動がどんなものであっても読み手にとっては「天才」という文字列から受ける印象、「純文学」という文字列から受ける印象になってしまう。

言葉に対して誠実であろうとするなら、この記事を書きながらでも「ここは『矮小化』『陳腐』という言葉で適切なのか、この言葉を選択したときに捨象された部分はどうなるのか、もっとふさわしい表現はないのか」と逡巡してしまうのだ。

感情を言語化するということには良い面もあれば悪い面もある。もちろん、「私の考えていること察してよ」では決して人間関係はうまくいかないし、作品の感想を届けなければ作者としてはモチベーションにならないだろう。

朝井リョウ『何者』の「頭の中にあるうちは、いつだって、なんだって、傑作なんだよ」ではないが、絵は下手くそでも書き続けなければ上達しないし、仕事は完璧を求めず出来る限りのものを仕上げなければならないし、言語化も自分の知識語彙言語能力の範囲内で失敗を恐れず書いて喋って表に出していかなければ伝わらない。

 

ただ、それでも、私にはこの感情を言葉にしたくないなあと感じる作品が、瞬間が、間違いなくある。

言葉に自分の感情に作品に正直で誠実であろうとするなら、筆舌を尽くさないほうがいいときがあるのだ。

 

 

『ルックバック』はいいぞ

 

 

 

 

GWなのでなんの動物の肉まで食べられるか考えています

※注意:この記事には動物への愛情が深い方にはショッキングな描写が含まれる可能性があります。閲覧は自己責任でお願いいたします。読者の方が気分を害された場合、責任を負いかねますので御注意ください。

 

2年ほど前に見たこんなツイートをさっき思い出した(おぼろげな記憶を頼りにtwitterの海から20分ほどかけて掘り返した)

 

この記事を開いた読者の方も是非考えてみてほしい。

 

ウマ娘なるアニメとアプリが流行っている

その関係で、昔から度々聞いていた「競馬好きや馬主に馬肉や馬刺し云々の話はNG」なる界隈ルールのようなものがあるのに昨日久々に触れた(それでキレている人をネット上で多数目撃した) モヤっとした

馬刺しを愛する一介の熊本県民である自分にとって馬は乗るものでも走るのを見るものでも愛でるものでもなく食べるものだもの 大勢にとっての牛や豚や鶏がそうであるように

その関連で「水族館で『この魚美味そうだな』と言っている人がいたら頭おかしいのかと思うだろ」みたいなコメントも見た もっとモヤっとした 

 

ほとんどの人が、それこそ小学生の道徳で屠殺なんかを扱った頃から、動物を食べることって何だろうみたいなことは考えたことがあると思う

生命倫理の議論が好きな人なら、中学生くらいの頃に「動物実験でマウスとか殺すのって許されるのか?」「ペットとか動物園って人間のエゴじゃないのか?」「菜食主義って無駄じゃないのか?」「捕鯨にキレてる人たちってなんなんだ?」みたいななんの飯の足しにもならないようなことを考えたことがあるかもしれない

残念ながら私は小中学生でそういったことを考えるのをやめることなく一生考え続けるタイプの人間である 少なくとも23の現在まだ"そういうの”を卒業していない

 

 

ところで先ほどのツイートの食べても倫理的に許される順番は決まっただろうか。(ちなみにツイート主はここに「人語を解するカニ」も加えたかったらしい)

 

 

当該ツイートへの引用RTでついているコメントでは胎児や宇宙人、デザイナーベイビー、子猫などが後の方に、つまり「食べても許されない」ものとして置いている人が多いようだった(詳しくは読者の方が自分でツイートから飛んでコメントを確認してほしい 色々な意見がある)

許されなさ、倫理、アニマルライツはどこに発生するのか、何に依存するのかの代表的な論点がこのツイートには含まれている

 

つまり

・人と近ければ食べることが許されないのか

・知能が高ければ食べることが許されないのか

・日本法では人権のない(堕ろすなどしても罪に問われない)胎児はどうなのか

・人であるかどうかは遺伝子によって規定されるのか

・動物愛護や動物の権利は愛玩と強く結びつくのか、犬猫を食べることは家畜を食べることよりも悪なのか

・倫理の逸脱とは、外形的、習慣的なものからの逸脱なのか 明確な基準があって逸脱を決定されるものなのか

などの点である

 

個人的には、

・痛覚のない動物を殺すのは許されるのか

・反復継続的、社会慣習的に食べると許されるのか

などの点も含んだ選択肢も作って欲しかった 

以前クラゲに電極ぶっさす実験についての記事に「可哀想」という意見がついてるのを見て「クラゲに脳も痛覚もないけど、この『可哀想』っていうのは愛玩からくる感情なのか?動物の権利は人間の愛玩感情から発生するのか?」なんて思ったことがある(口に出すとヤバイ人だと思われるから人前では言わないが)

菜食主義についての議論でよく聞かれる「動物を食べるのはだめだが植物を食べるのは許される」理由としてしばしば挙げられるのが知能、とりわけ痛覚の有無だ 苦痛を与えるのは悪 苦痛を与えずに命を奪うのは許されるという倫理観だ

前述の小学校の屠殺の道徳の授業でも、「苦痛を与えずに済むように銃で一発で殺します」と説明されて幼心に「は?」と思った記憶がある 

そんなことを言われると、「全身麻酔で感覚も意識もない牛や豚なら食べるのを許されるのか?」なんて思ってしまう  動物が受ける苦痛の問題ではなくて人間が受ける良心の呵責や共感性からくる人間自身の苦痛を減らしたいのではないのか

 

誤解を受けないように言っておくと私個人は、人間は食のみならずあらゆる面で人間中心主義的に他の生物に関わっているため、今更他の動物の権利の保護などいうのは矛盾でしかない、アニマルライツは認めない 権利がないのだから動物を食べることも動物実験も悪になり得ない という立場だ

ただ、ドキュメンタリーなどで猿やペットの犬が食用にされている海外の映像を見るとそれなりにショックを受ける それくらいの人の心はある

しかし一方で、牛や豚が食用にされても心はさほど痛まない 反復継続的・社会慣習的に行われていれば猿が食用にされていても心は痛まないのかもしれない 人間の倫理や心なんてそんなあやふやなものだ

 

最初のツイートに挙げられているものを私が並べるなら、(ここでは私個人が許すかどうかではなく社会的に許されるかどうかという問いだと解釈している)

許される順に

①ヒト遺伝子が組み込まれた豚②ヒト細胞でできた培養肉③知能を低下させたイルカ④人語を解するサル⑤子猫⑥対話可能な宇宙人⑦デザイナーベイビー⑧胎児

となる。(人語を解するカニを含めるなら①と②の間)

理由は、生命倫理において重要なのは遺伝情報などの本質的なヒトとの近さではなく、従来の社会慣習からどれだけ逸脱しているか、外形的にどれだけ普段食用のものと近いか、だと考えるからだ

 

個人的には全部食いたくない

 

 

結局、このツイートに対する反応ですら分かれているように、生命倫理の議論やディスカッションが紛糾するように、合意が取れにくい分野なのだ

これはよくてこれはダメというラインの個人差が大きすぎて合意が形成できない

おそらく生命倫理は大いに個人の動物に対する愛着に影響される

馬が好きなら馬が食肉にされる話は気分を害するし、クラゲが好きならクラゲが電極ぶっ刺されてれば可哀想に思うのだ ゴキブリが好きな人はゴキブリが軽卒に潰されて心を痛めているかもしれない 細菌が好きな人は日々無数に殺されていく菌に心を痛めているのだろうか

犬猫が美味しければ犬猫を食べるという人だっている

人間の肉がもし信じられないほど美味だったなら、世界は、倫理は、どうなっていただろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人を助けたがる病める人たち -アニメ「灰羽連盟」を観て-

 

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灰羽連盟」というアニメ

作品とあらすじ

知る人ぞ知る名作90年代アニメ「serial experiments lain」のキャラクターデザインを手がけた安倍吉俊氏が原作・シリーズ構成・脚本を務めた作品。

lainが刺さる人には刺さる、隠れた名作鬱アニメという評判を聞いていたので一気見しました。13話なので見ようと思えばすぐに観られる分量。(日常回の3~5話を飛ばしたから実質10話だった)

羽が生え、頭上に輪をつけた、天使とも人ともとれるような姿の人々の共同生活が突如映し出され、主人公の少女が繭の中で目を覚ますところから物語は始まる。自分が前にいたところも、名前も思い出せない少女。ラッカと名付けられた少女は「灰羽」と呼ばれる羽の生えた人々との共同生活に戸惑いながらも慣れていくが、ある日事件が起こり少女は…

 

ネタバレと考察と感想

(以下ネタバレです、灰羽連盟を観たい方は次章まで飛ばしてください)

 クウという少女が旅立ったにも関わらず割り切って過ごす人々と、一人鬱々と悩むラッカ。ラッカは病み始め、周囲はラッカを腫れ物のように扱い始める。羽は黒くなり、自分の羽を自傷するラッカ。やがてラッカは自分の忘れていた夢を思い出す。屋上のドアを開ける音。ラッカは学校の屋上から飛び降り自殺したのであろうことが暗に示される。登場人物たちは繭で見た夢をもとに名づけられるが、ラッカは落下、レキは礫だ。羽を黒くする「罪憑き」のその二人は生前自殺したのであろう。ラッカは屋上からの落下死、レキは電車での轢死

 おそらくは死後であろうこの世界でもラッカとレキは鬱気質だ。みんなが割り切ることを割り切れず繊細に傷つき病んでいき周囲にあたり自傷をして自棄になっていくラッカ。人前では灰羽みんなの世話をし、物知りで優しいしっかりもののお姉さんだが、自傷的な煙草をやめず、自室で一人病んでいくレキ。

 この世界ではレキやラッカのような罪憑きは旅立ちができない。自殺したものは天国に行けないというキリスト教の世界観だ。新参のラッカと違って、レキは旅立てず周りに取り残されたまま何年も街に残る。物語中盤でラッカは自身の試練を乗り越え罪憑きではなくなるが、それにすら取り残された孤独を感じるレキ。

 ラストのネタバレ。自分が優しくしていたのは自分のためだ、誰でも良かったんだと自分を嫌うよう迫るレキに一度は「嘘だ…」と泣き崩れるラッカだったが、「それでもレキを信じたい」「わたしがレキを救う鳥になるんだ」と決意をし、タイムリミットを迎えようとするラッカがレキを救い、試練を乗り越えたレキが旅立ちを迎える。

  

 これは病んでいた人が最終的に乗り越え救済を得る物語だ。エヴァンゲリオンのアニメ版最終話で病んでいたシンジが周囲との壁の肯定、自分への肯定に気づき「おめでとう」と祝福されて物語が終わるのと同じ構造だ。自己否定の呪詛を自分にかけ続け、一人で悩み抱え込むのはラッカもレキもシンジも同じだ。

 

 これは、鬱の人による、鬱の人のための物語だと、わたしはそう感じた。

 万人にオススメできるものではない。このアニメが好きなんて人がいたらメンヘラだと思う。シンジに共感していた18.19の頃の僕なら賞賛していただろうが、シンジのような青少年、青少年期の自分をバカにするようになった今の自分には少し見るのが辛かった。ただ、そこそこの引っかき傷を自分の心につけてくれた作品だと思う。

人を助けたがる病める人たち

 この物語には、自身が病んでいるのに人前で気丈に振る舞い、人に優しく世話をし続けるレキという人物が出てくる。

 個人的な体験ベースだが、真面目で優しく鬱に悩まされているタイプの人で、人を助けようとする人、人を助けることで自身の存在意義にしようとする人がそこそこいる気がする。

 「私自身も学生時代鬱で悩まされていましたから」と僕に手を差し伸べ相談に乗ってくれた准教授、「院生時代鬱になっていたのでわかります」と寄り添ってくれたカウンセラー、「将来は精神に問題を抱えていた人の手助けがしたい」と言っていた同クラの精神病棟に入っていた子。SNSでよく見る自分自身も病んでいる精神科医

 そして僕自身結構そういうタイプだ。病んでいる人の相談によく乗るし、そういうひとに寄り添うボランティアなんかもしていたし、一時はそういう仕事に就こうともしていた。

 彼らは乗り越えたからその仕事をしているのか。乗り越えられていないけど自分のために人を助けているのか。それは果たして健全なのか。ミイラ取りがミイラになるどころか、最初からミイラだったものがミイラ取りをしているじゃないか。

 人に縋られるのは気持ちいい。頼られるのは気持ちいい。自己肯定しなくても自分の存在意義が感じられる。

 もちろん先述の僕を助けてくれたたくさんの素晴らしい大人たちを批判する意図はない。うつの人の気持ちがわかっていない、強者の理論を振りかざしてくるな、と感じるろくでもない精神科医にも会ってきた。気持ちをわかってくれる医療者、カウンセラーの方が数千倍いいに決まっている。

 ただ、それって健全な世界なのだろうかと、少しそう思うのだ。

最近のわたしの話

 恋に恋する中高生のように、2、3年前までの自分は鬱に鬱々としていたような気がする。抑うつの原因に、悩み事に、自身の内面に、集中して分析して悩んでさらに鬱が深まって。

 今はそれをしなくなった。完全に目をそらすようになった。自分の内面に病状に向きあう暇があったら趣味に時間を使っている。鬱々としたツイートを繰り返して自分も病んで周りにも闇を植え付けて心配させるよりは良いと思ってそうしているが、目をそらして気丈に明るく振舞って何も解決していないという現状は後退のような気もする。

 二週間前からあたらしい病院にかかって薬も頑張って飲んでいる。いい先生でいい病院なので継続的に通院・服薬ができるといいが、昨日まで3、4日かなり具合が悪かった。ゼミの初回の締め切りに過ぎたりリサーチペイパーの期限が迫ったりと学生生活もままなっていない。オンラインで授業を受けるのは前期に引き続き挫折し始めている。

 ええかっこしいをやめて親に周りに頼ればいいのに。どれだけ取り繕っても同期はみんな院進・就職して忙しそうにしている中ニートを続けているクソ野郎だ。恥も外聞もかなぐり捨てて教授に土下座して親に医者にまわりに迷惑かけてでも泣いて喚いて鼻水垂らしてでも卒業しなければならない。

飽きた

インドア派なので、「一人で家にいると退屈じゃない?」と言っている人は家で過ごせる娯楽を探すのが下手なだけだと思っていた 自分は家で楽しく過ごすのが得意な方だと思っていた 最近暇つぶしに困ることが増えてきた

 

テレビに飽きた

3~4年前からテレビがつまらなくなった 高校生までは日常の娯楽の半分はテレビ、友人との話題の半分はテレビ、家族団欒にもテレビのテレビっ子だったのに 予算のかからないクイズや同じ企画を繰り返すバラエティ ドラマも『アンナチュラル』『獣になれない私たち』以降何も見ていない気がする

youtubeに飽きた

元々民度の低いうるさいだけのyoutuberが嫌いで、穏やかなゲーム実況者やquiznknockなんかを見ていた quizknock、登録者5万人くらいの頃から見ていたのに2020年に入ったあたりからネタ切れを感じてもうめっきり見なくなってしまった 2年くらい追っかけをしていた実況者三人称も喋りもネタもマンネリだなと思ってあまり見なくなった

ゲームに飽きた

ゲーム禁止の家庭で育ったため、反動で高校生くらいからスマホゲーを狂ったようにやっていた 大学からはsteamを中心としてPCゲーもそこそこやった 一昨年休学していた時もほぼ半年間ソシャゲとマイクラだけやってたようなものだった steamの名作タイトルはほぼやり尽くした感がある Play Stationなどのコンシューマゲームは一人暮らしをするまでできないしその頃には社会人だからやらないだろう

漫画アニメに飽きた

ここ5・6年のメインの趣味だったといえる 何百タイトルと触れるうちに、限界効用が逓減しているというか、新しく発掘する中で良い漫画アニメだと思うものの数がめっきり減ってしまった なんだかんだ名作どころを総なめしていった最初の1・2年が一番充実していたのだ 「あーまたこのタイプね」「またこういうキャラか」みたいな冷めた反応になってしまうことが増えた そもそも精神年齢的に合わない作品が増えた SAOやリゼロを目を輝かせて見ていた高校生時代に戻りたい

Vtuberに飽きた

ここ1年間くらいのメインの趣味はにじさんじだった シロや夜桜たまを見ていた頃から合わせれば3年近くvのオタクをやっていた もうめっきりにじで面白い企画がなくなってしまった ホロライブが全盛期なのはわかっているが、肌に合わない 推し数人の配信だけたまにチェックしてもうあとは見ないようにしようと思う

ボドゲに飽きた

麻雀も最近あまりしていない 原理的に上手くても4割は負けるゲームで、しかも上達への道のりは長い 努力に対して得られる効用が釣り合わない 牌効率さえそこそこちゃんとやれば勝てるみたいな卓にいたころが一番努力と上達を感じて楽しかった RPGとかで地味なレベリングしないと強敵に勝てないなら投げてしまうタイプだ 一週間くらい前まではポーカーや花札に手を出してみたもののある程度ルールや定石を把握したあとは長続きしなかった

 

大人の趣味を嗜めない

中学までのメインの趣味は小説だったはずだ 家の本棚から本が溢れかえって本を買いたくなくなっているのもあるが、最近小説をめっきり読めなくなった 長時間活字を追うのが辛い web小説すらも有名どころを一通り押さえてからは読まなくなった なんなら難しいことを考えるのもつらくなってきた 古典を読むのも最近できていない

洋画を2時間見るのもつらい なんで世の健常な大学生のみなさんはあんなに洋画を趣味としていらっしゃるのだろう 200作くらいしか見たことないけど、名作って言われるものでも結構退屈じゃないか 人と話を合わせるためだけに義務的に見ている感じがある 漫画アニメのひとことではっとさせられること、人生観に1フレーズを付け加えることはあっても、洋画では個人的にあまりない 起きて1時間すれば忘れるひとときの夢という感じ 人生に爪痕を残すような何度も見返すような作品に出会ったことがない 誰かいいの紹介してくれないだろうか

 

人生は壮大な暇つぶしだ 労働のために生きるつもりはない 家族との幸せを夢見るタイプでもない 勉強や労働は義務でしかない 趣味を楽しみことを生きる目的に置いている自分にとって一人でのめり込めることがないというのは死活問題だ 

 

 

感情に身を委ねるという娯楽

「あんた国語できる癖になんでそんな人の気持ち分からないの!」

昔高校卒業後距離を取るようになった友人からぶつけられた言葉だ

 

正直、感情の起伏が小さい人間だし、他人の感情というものが人と比較してよくわかっていないように思う 感情に対して言語で説明を与えようとする姿勢からそもそも間違っているのかもしれない 国語ができる人間なので言語化すれば理解できた気になれる

 

Twitterを見ていると、言語という形で感情の奔流が押し寄せてくる 新型コロナウイルスに、凄惨な事件に、不安になる 政治家に、世の理不尽に、対立する思想に、怒りを覚える 世渡りの上手い人に、恵まれている人に、嫉妬してしまう 性的なものに、熱い試合に、興奮する 生きづらさに、病気に、苦しい 

インスタや顔本に喜怒哀楽の喜と楽を吸われてしまうから、どうしてもtwitterは怒と哀の奔流になってしまう

 

アクタージュという漫画を買ったが、感情に関する分析的な言及が多い。

「悲しみと怒りってちょっと似てない?(中略)人生で一番悲しかった日のこと 案外そのときが人生で一番怒った時ってやつだったりしない?」

「やれあいつが気に入らねぇ仕事が気に入らねぇ政治が気に入らねぇ(中略)学校じゃ順番みたいにイジメの対象が移り変わり(中略)ネットを開けば他人への悪意で埋め尽くされている(中略)怒り続けることで自意識を保ちもはやそれが手前のアイデンティティになっている」

 

近頃、よく思う 感情は副次的な随伴的な、自分や他人の言動、出来事で自然と出てくる結果としてのものというだけでなくて、僕ら人間は感情を垂れ流しそこに身を委ねることを目的として動いていることが多々あるのではないか、と

泣いてスッキリしたいから映画を見る、笑ってストレス解消したいからお笑いを見る、恐怖で非日常を感じたいからホラーを見る、この辺りはよく聞く「感情を動かすことを目的とした行動」だ

でも、もっともっとそういうことって多いのではないかと 感情の発露を娯楽にコンテンツに、人生の起伏にしている人って実はすごく多いのではないかと 恋愛や闘争、エログロと同じくらい、激しい感情というものに人は惹かれ焦がれているのではないかと

自己憐憫に浸りたいから病みツイ連投してみる  世の不正に怒りたいからニュースで怒れるネタを探す 悲しみ胸を痛めたいから可哀想なニュースや人を見つけて涙を流す

喜や楽といったプラスの感情を娯楽にしているのは言うまでもないけれど、マイナスの感情までも僕らは娯楽にしているのではないだろうか

 

映画でもアニメでも、「感動もの」は最も多くの支持層を得られるジャンルだし、「キャラクターに主人公に感情移入できるか」が作品を論評する上でよく語られているのを目にする

youtuberはリアクションが大きい人が伸びるし、わざと発狂芸キレ芸なんてする人もいる 海外にはリアクションするだけの動画なんかが溢れている

感情の起伏が小さい上に自身の感情を動かすことをあまり求めていない僕にはこれがよくわからない 映画やアニメなどの作品であれば独創的で作り込まれた世界観・設定や張り巡らされた伏線と謎とその鮮やかな回収といった点を最重要視するオタクだ 主人公なんて俯瞰視点で見てるので自己投影も感情移入もしない(好き嫌いはあるが) ワンピースのような登場人物の過去を掘って感情移入させて大声で叫んで笑って怒って泣いてさせる作品より、ワールドトリガーのような表情に乏しい作画で全員が淡々と合理的に行動している作品の方が見やすいなと思ってしまう テレビやyoutubeのバラエティでも、リアクションの大きい人にはわざとらしさを感じたり「うるさいな」と疎ましく思ったりする

 

自分は今までの人生そんな調子でやってきたし、今から普通の人にはなれないと思う でも普通の人を理解したい もう少し、感情という最も人間らしいものの魅力に力に気付いていきたい

11/27

冬の夜。最近の習慣で最寄りの一つ前の駅で降りた。小雨。フレンズを口ずさみながら歩いて帰った。

 

冬の夜。読書仲間と卓を囲んで古典を読んだ。この大学に来て唯一良かったことは本を共に読んでくれる人がいたことだ。それも来週で終わる。人が揃う前に一人のジェンダー論批判を聞いた。ものをよく考える人の発言だったので興味深かった。

 

冬の夜。最近成功体験を積んでいない。何かを成せる気がしない。目下就活と大学中退がかかった期末試験がある。やるべきことをしない。タスクをこなせない。趣味の麻雀やクイズをやってもうまくいかない。達成を、成功体験を積みたい。そう思ってブログを開いた。自分の文章に酔える性質の人間なのでブログは手っ取り早い自己陶酔ができる麻薬だ。自分に響く文章を綴れるのは美点だ。

 

 

(6/16 半年以上前に深夜テンションで綴ったものを下書きに発見したので今更投稿します)