ぴたぱんの備忘録

物語と人が好き。本とか映画とかドラマとかゲーム実況とか漫画とかアニメとか。触れた直後の想いを残しときます。

剥ぐ・吐く

 

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 
ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)

 

※ 注意 (お断り)

本ブログの著者は哲学の素人で、頭の体操として趣味で本を読んでいるだけです。誤りを多々含む可能性があることをご承知おきください。

 

ニヒリズムとの出会い

こんにちは、ぴたぱんです。今日は虚無主義実存主義の話をします。

読者の中には、そう言われてもピンとこない方もいるかもしれません。

 

私が初めてニヒリズムときちんと向き合ったのは、川上未映子さんの『ヘヴン』を高2年で読んだのがきっかけでした。

ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴン (講談社文庫)

 

『乳と卵』等で有名な川上未映子さんですが、哲学的な要素も小説に盛り込む方で、『ヘヴン』はいじめを題材にニヒリズム(全てに価値も意味もない)と宗教(全てに意味がある)との間で揺れ動く主人公 を描いた作品でした。恥ずかしながらこれを読んで初めて、「今まで無批判に学校や家庭で教わった"悪いこと"を"悪い"として受け入れてきたけど、世の中の善悪に根拠なんてないんだ」と気づいたのです。

 

ニーチェニヒリズム批判

19〜20世紀、近代に入った西洋ではキリスト教と教会に代わって科学が支配的になりました。それまで神と教典に拠って規定されてきた「何が正しいか」「どう生きるべきか」「何が善で何が悪か」「生きる意味とは何か」が失われていったのです。(善悪基準の根拠については17〜18世紀に出ていた契約説が新たな根拠として機能していた面もあるでしょう)特に19世紀ロシアでニヒリズムの風潮は根強く、トゥルゲーネフやドストエフスキーらの文学でも(やや批判的な文脈で)描写されています。

意味を信仰を失った人々は、ある人は生きることに否定的になり、ある人は無政府主義になり、ある人は革命に走ったのでした。

そんな19世紀に現れ、「積極的ニヒリズム」を掲げたのがニーチェです。(ニーチェは信仰を価値を否定している点ではニヒリズムなのですが、生を否定している"消極的ニヒリズム"には否定的で、"積極的ニヒリズム"と呼ばれます。)キリスト教道徳を奴隷階級の貴族階級への「ルサンチマン(怨恨)」由来の「奴隷道徳」だとして批判した上で(「神は死んだ」)、生を否定するロシアに蔓延するニヒリズムをも激しく非難し、「生への意志」「力への意志」を掲げ力強く生きよと説き、「運命愛」の思想で実存主義の先駆けとなったのでした。

 道徳のことがらにおいては、これまで本能が、キリスト教徒の呼びかたで言えば<信仰>が、私流儀にいえば<畜群>が勝利をしめてきたのだ。ただし合理主義の父であるデカルトは例外としなくてはなるまい。彼は、理性にだけ権威を認めた。だが、理性は一つの道具にすぎないものだ。その点デカルトは浅薄であった。

法と不法をそれ自体として論ずることはまったく無意味なことである。生が本質的に(中略)破壊的に働くものであって、かかる性格なしには考えられないものである限りは、侵害も暴圧も搾取も破壊もそれ自体としては何ら<不法なもの>でありえないことは明らかである。(中略)法律状態というものは、権力を目指す本来の生意志を部分的に制約するものとして、またこの生意志の全体的目的に従属する個別的手段として、(中略)つねにただ例外的でしかありえないということである。

既存の価値や道徳を批判しながらも生への悲観や堕落に陥ることなくあるがままの運命を愛せと説いたのです。

 

キリスト教が強かった前近代が終わったと言っても、現代日本はメディアや流布している価値への同調圧力が強く働き、それは一種の信仰と道徳、価値体系をなしています。私はいつもそれに批判的になってしまい、日本社会の信仰を崩し価値基準の根拠のなさを指摘し化けの皮を剥がしたくなってしまいます。しかしそれは同時に「こうするのが幸せだ」を失ってしまうことと同義で、ニーチェのように「生」の絶対善を措定できない私は何事にも動機付けが持てず堕落してしまいます。

 

サルトル実存主義

「実存は本質に先立つ」20世紀半ば、この言葉を知らないものはいなかったと言います。ハイデッガーヤスパースらが導入した「実存」をフランスに輸入し、『存在と無』『実存主義とは何か』などで実存主義の一大ブームを巻き起こしたのがサルトルです。

 

サルトルは、フッサールハイデッガー現象学(わからない方は調べてみてください。フッサール現象学については、自分の存在や対象の意味を自明なものとして心的確証を持つのをやめ、世界内からの意味づけを剥ぎ取って対象の存在に迫ろう的な感じだとブログ筆者はいい加減に理解しています)に影響を受け、「存在と無」で現象学存在論を発展させています。

現象学的に分析すると、人間の存在の中心に「本質」はなく、そこにあるのは無です。その上で、「対自存在」(自己に対する意識を持つもの、人間など→自己同一的でない)と「即自存在」(そのような意識を持たないもの、無機物など→常に自己同一的)をわけ、「対自存在」である我々人間は、どうあるかを自由に選べる存在であり、「人間とは彼が自ら作り上げる存在に他ならない」と主張しました。これが有名な「人間は自由の刑に処されている」の意味です。そして、本質がないまま人間が存在しているというのが「実存は本質に先立つ」です。

「実存は本質に先立つ」とは、簡単に言えば「置かれた場所で咲きなさい」的なことです(ほんとか?)もう少し噛み砕きます。「本質が実存に先立つ」例としてペーパーナイフを人間と対比させています。ペーパーナイフは「紙を切る」という目的、<本質>があって生み出されているものですが、無神論的に人間にはその<本質>がありません。

本質、つまり、人間が生きることに目的や意味はありません。しかしながら、この世に存在している人間は、どうあるかを自ら選べるのであり、選んでいかなければならないと説くのです。

 

こういった実存主義の考え方は、第二次世界大戦後に確かなものが崩れ去り既存の価値体系が崩壊した20世紀フランスにおいて、前述の消極的ニヒリズムに陥った人々への一種の救いとなりました。こうしてサルトルブームが起こったのです。

 

サルトル『嘔吐』

上記のサルトルの思想、実存(存在)に関する哲学を小説の形にしようと試みられたのが有名な『嘔吐』です。サルトルは『嘔吐』のような文学作品でも知られ、1964年にはノーベル文学賞に選出されるも辞退し、自発的にノーベル賞を辞退した最初の人物としても知られます。

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

 『嘔吐』のあらすじを勝手な解釈混じりでまとめると、

主人公ロカンタンは働かず論文を書いたりしている、生きる理由も死ぬ理由もなく生きている。ある日、それまで好きだったもの、道端で拾う落ち葉や自身の研究課題、肉体関係のある女性などについて「吐き気」を催すようになる。

長らく「吐き気」の原因がわからなかったが、ある時公園で、ベンチの下でマロニエの木の根が地面に食い込んでいて、裸の存在として周りと何の関係もなく存在している、「余計なもの」だと気づいた時に「吐き気」の正体に気づく。

ロカンタンは、身の回りの人やものを自らの意味づけた世界の中で位置付けることができなくなり、それらが「不条理に偶然に存在している」「存在は必然ではない」ことに吐き気を覚えていたのである。

我々全ては余計な存在である。

ものに限らず、人間も「余計なもの」で世界に生きているのに理由はない。

「私たちはみんなここにいる限り、自分の貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしているけれども、実は存在する理由など何もない、何一つない、何一つないんです。」

 

そんな彼が唯一吐き気が収まるのが、好きなレコードを聴いている時だった。(秩序立った、全てに意味がある"世界”が心地よかったのだろうか)これに気づいたロカンタンが小説を書こうと思い至って 物語は終わる。

 

存在と無』などよりも前に書かれた『嘔吐』自体は存在に本質がないという現象学存在論が主題となっているが、実存主義的な考えはロカンタンのセリフにも現れている。

「人生はそれに意義を与えようとすれば意義があるのです。先ず行動し、企ての中に飛び込まなければならない。そのあとで反省をすれば、運命の賽は投げられたのであり、すでに途は決まっているのです。」

 

もしブログ読者の中に生に否定的なニヒリズムに囚われ生きづらさを感じている方がいらっしゃるなら、ニーチェサルトル実存主義的な生き方は一つの答えとなるのではないでしょうか。

 

残念ながら私には救いとはなりませんが(苦笑)

サルトルに救いを求めてブームとなった構造は宗教そのものですね)

 

実存主義から構造主義、さらにポスト構造主義

ここから先は私もあまり詳しくありませんので今後本を読んで夏休みにでも書きたいと思います。

ニヒリズムが意味や価値の剥奪、つまりもっとも人間的な行いである主観的意味づけ、信仰、価値づけを否定するアンチヒューマニズムであったならば、サルトル実存主義は人間の主観の復興とも言えるものでした。サルトル実存主義ヒューマニズムであるといっています。

しかしながら、1960年代に登場した構造主義の代表格であるレヴィ=ストロースサルトル実存主義を強烈に批判しました。構造主義は、「人間は見えない(自覚されない)構造に動かされている」といったようなものですが、マルクス主義に傾倒するようになったサルトル実存主義的な立場から「歴史は後から肯定される」というような態度になったのに対し、歴史解釈が西洋中心的で、主体偏重のものだと批判したようです。

こうしてモデル化して構造を解明しようとする構造主義が主流となり、実存主義は下火となりました。

しかしその構造主義フーコーデリダによって批判されます。構造主義は静的な構造のみで説明しようとするものですが、構造の生成過程や変動にも注目する必要があるとしたのです。言葉によって構造化できるというのが誤りだというのです。(この辺ブログ筆者はまだよくわかっていません)明確な定義や枠組みがあるわけではないようですが、この辺りの思想をポスト構造主義と呼ぶようです。

 

ここまで読んだ方は、「あれ?」と思ったかもしれません。いわゆる「生の哲学」の系譜からは構造主義ポスト構造主義は外れているため、実存主義との連続性はあるにしろあまり関係ないとも言えるかもしれません。実存から方向性を自由に選び取ることはレヴィ=ストロースのいうように歴史解釈に適用するのはまずいのかもしれません。しかし、「宗教を失った我々はどう生きるべきか」には依然として実存主義的な考え方は有力なのかもしれません。

 

剥がさずにはいられない

私個人としては、それができる人ならば宗教や信仰、流行に乗って意味を価値を規定するのもありだと思っています。「世間の作る価値や意味が虚構だとわかってもなおそれを楽しめる」という人が僕の周りには何人かいます。生の肯定とはまた違った、信仰の肯定のようなものでしょうか。生き方として一つ有力でしょう。

それでもなお、私は「どうやれば上手く生きれるか」という打算よりも「それおかしくね?」という批判が優先してしまう人間です。生を肯定するのもおかしいと感じるし、虚構を虚構だとわかりながら受容するなんて器用なことはできません。

みんなが賞賛しているぬいぐるみがあったら、背中を開いて「こんなの綿じゃん」と言いたくなる、みんなが魅了されるマジックがあったら「タネを明かせばこんなの大したことないよ」と言いたくなる、そんな人間なのです。

僕の友人には、坂口安吾の「無頼思想」になら乗れるという人もいます。ニーチェのように堕落を批判するのではなく、「堕落してもいいじゃないか」と考えるのです。それもありなのかもしれません。

 

既存の価値体系に根拠はないと言いつつも、「剥がさずにはいられない」とは言いつつも、内面化されたものを見つけ「これは僕の自由意志・本能ではない」と言いたくなりつつも、頭では思っても感覚ではみんなと同じようなものに喜怒哀楽を感じる自分がいます。美味しい食べ物を食べれば美味しいと喜びます。女の子から振られれば悲しいです。フリーライダーには怒ります。みんなが面白いと思うもので笑えます。今は、それに人生の機微を見出し、喜べるものを享受するために生き続ければいいのではないかと思っています。