ぴたぱんの備忘録

物語と人が好き。本とか映画とかドラマとかゲーム実況とか漫画とかアニメとか。触れた直後の想いを残しときます。

狂気と頭の体操

f:id:pitapanbibouroku:20190706212533j:plain

こんにちは。ぴたぱんです。

テスト期間です。セルフハンディキャッピングの季節です。

テスト前にもかかわらず哲学の著作を買いあさり読んで、時間のかかる「長文ブログを書く」なんてことをしようとしています。これを読もうとしている読者の方もそんな感じなのではないでしょうか。僕と読者の方の勉強時間の確保のために、できる限り簡潔にまとめます。暗い話なので耐性のない方は読むのを辞めることをオススメします笑

 

以前の記事からの変化・訂正

pitapanbibouroku.hatenablog.com

4月末にこんな記事を書きました。ここ数年の僕の思想・思考の基礎となる部分を記したつもりですが、多くの友人から「あの文章めちゃよかった」「久々に頭使った」「狭い範囲の人にはめちゃめちゃ刺さる文章」との高評価をいただきました。

怒りと衝動に任せて深夜テンションで書いた文章だったので、接続詞も使わない、ろくに調べもせず事実と異なる記述も含む文章であったことをお詫びと訂正させていただきます。合わせて、この記事を書いた時から変化があった点についても書きます。二点だけ記すので本論に入る前にお付き合いください。

 

一点目。ロールズ『正義論』について。

4~6月、友人3人と『正義論』の輪読をしました。7月はテスト前で中断していますが、8~9月に約800ページの大作を読み終わり、各節の要約レジュメも完成させるつもりです。

正義論

正義論

 

前の記事で

ロールズは無知のヴェールを被れば全ての人の被害損失が最小になるシステムを選択するはずだという。全体の生産量を最大化するための格差の肯定。現行システムへの後付け理論補強に熱心だ。僕は90%の確率で強者に生まれ10%弱者に生まれる場合にシステムを選択しろと言われたら、強者の利益を最大化できるシステムを選択する。

と書きましたが、これは解説書等を読んでの理解で、実際に『正義論』を読むと誤解だということがわかりました。ロールズの想定する「無知のヴェール」を被った「原初状態」では、実際に社会に入った時に自分がどんな地位に立つ確率がどの程度かの情報は得られず、したがって制度の選択をする際に自分がつくであろう地位についての期待値計算はできないとのことでした。輪読が終わったら一度ブログに約800ページを読んでの感想等まとめようと思っています。

先のブログで引用している他の先人の思想についても、誤解がある可能性があります。今後少しずつ原典(の翻訳)に当たりながら検証して行きます。

 

二点目。小坂井敏晶氏への評価について。

先の記事を書いた時には非常に小坂井氏を評価していました。パリまで会いに行きたいと思ったくらいでした。しかし、よく調べてみると、どうやら彼の著作は僕のブログと同じくらい出典と引用先の著作についての理解が雑なようなのです。特に自然科学、医学に関しては「聞きかじり知識」程度でそれっぽく書いているだけで誤解もあるという指摘があるようでした。

それでも、現代人の中に残る「虚構」と「神の亡霊」(僕のいう「信仰」)への考察を読みやすい文体で切れ味のあるナイフのような鋭い言葉で記している点はエッセイとして非常に評価できると考えています。

責任という虚構

責任という虚構

 
神の亡霊: 近代という物語

神の亡霊: 近代という物語

 

 

 

フーコーの「狂気」考察に触れた衝撃

ブログの本論に入ります。誕生日にかねてより読みたいと考えていたフーコーの『狂気の歴史』やその解説本、講義録を収録した本を数冊買いました。

狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における

 

 休学していた時に有名な『監獄の誕生』については読んだのですが、その時は「ポスト構造主義」や現象学ニーチェハイデガー等他の19~20世紀哲学からの影響や流れについてほとんど理解していませんでした。触りだけでもわかるようになった今、それらとの関係の中でフーコーの思想を位置付けることが少しはできるようになってきたと思います。

さて、これらの本を読んだ時、「俺が探していたのはこれだ!!!!!」と雷に打たれたような衝撃を受けました。私の中学からの関心事は「刑事政策」、すなわち刑事施設内処遇や刑務所から出た前科のある人の改善更生、社会復帰、さらに少年法や非行防止の教育学的アプローチ、犯罪心理学医療観察法、ダイヴァージョン理論等でした。そしてここに、大学に入って自身が苦しんだ原体験から、「精神障害」、特に精神障害者の犯罪、ASD、鬱、BPDやその他パーソナリティ障害、統合失調症双極性障害についても詳しく調べていました。これらを総括すると、僕の関心は「逸脱」です。そしてこのフーコーの「狂気・理性」考察は「狂気」とは何か、我々がいかにして「狂気」を監禁してきたかが綴られています。そしてそれは「逸脱」とその排除への考察でもあるのです。

 

※注意(お断り)

私の専攻は法学であり、心理学や哲学、社会学精神病理学は大学できちんとした授業を取っているわけではなく趣味で本を読んだりしているだけです。ただの頭の体操です。特に哲学や社会学の思想に関しては「専門の人」から殴られかねない読み方(自分が疑問に思ったことに関連のある思想のみ追う)をしています。ど素人の誤解含む見解だと思って以下の部分は読んでください。

 

狂気と理性、精神病、監禁(引用)

以下、上にあげたフーコーの著作、フーコーの講義、小林康夫東京大学名誉教授による解説から引用します。どの部分がどの本の何ページなのか気になったら知人の方はぴたぱんに直接聞いてください。僕が本に折り目をつけてるとこです。出典の明記がめんどくさくなりました。テスト前なので。

全ての心的な症候を薬理学的にコントロールできるようになるということだろうか?あるいは、行動の逸脱を十分に厳密に定義することによって、社会がそれぞれの逸脱について適切な防止措置をとることができるようになるということだろうか?(中略)それらの変化の全ては私たちの文化から狂気の顔立ちを消し去る意味を持つことになるのだろうか?

ひとつの文化が、それがまさに排除するものに対してもつ関係であり、もっと正確にいうなら、われわれの文化が、狂気のなかに発見すると同時に隠している、あの、遠くかつ逆転した、己れ自身との関係の真理なのである。

歴史の資料を探ってみると、十七世紀の半ばごろまでは、西欧は狂人に対して、また狂気というものに対して、まさに注目に値するほど寛容であった。狂気という現象は、いくつかの排除と拒絶のシステムによって明示されているけれども、それにもかかわらず、いわば社会や思考の織り目の中に受入れられていた。(中略)周縁的存在ではあるけれども、完全に排除されていたわけではなく、社会の機能の中に組み込まれていました。ところが十七世紀以降というもの、(中略)周縁的存在としての狂人を完全に排除された存在へと変えてしまいました。

『狂気の歴史』は西欧の近代の理性がどのように生み出されたのかを問うという、正統的に哲学的な問題を扱うと同時に、精神分析や心理学、そして歴史学の問題領域へと踏み込むものだったのだ。監禁や排除が生み出した精神医学という「人間の知」を問うという、知と権力の問題を初めて提起した本でもあった。

デカルトの『省察』の一節を分析するフーコーは、デカルトの「懐疑」が思考から狂気の可能性を排除していることを明らかにする。そこでは理性と非理性とのあいだに決定的な分割線が引かれ、狂気はこの境界線の向こう側に閉じ込められている。(中略)理性がみずからの圏域から非理性を追放するのと同様に、社会は非理性的存在を排除することで、安定した均質性を獲得しようとする。

ここで興味深いのは、狂気の本質的な構造は言語活動だとフーコーが指摘していることだ。(中略)イマージュ(ぴたぱん注:幻覚や幻聴など)それ自体としては純粋なものであって、狂気ではないのだとフーコーは言う。つまりどのようなものが見えてしまおうが聞こえてしまおうが、それを「非理性的」「非論理的」に解釈してしまう異様な言語活動が存在する場合にのみ「狂気」なのである。狂気が、かりに異常なものであれ何らかの論理にもと付いて構築された言語活動ならば、理性による把握ができるはずである。こうして狂気の危険性は打ち払われ、狂気は理性の取るに足らない「対象」とされる。

こうした権力関係(ぴたぱん注:医師と精神病患者との権力関係)に置いて、第一に含意されていたのは、非狂気が狂気に対してもつ絶対的な権利だった。それは、無知に対して行使される能力という観点から書き写された権利であり、錯誤(幻覚、錯覚、幻影)を修正する良識の権利であり、混乱や逸脱に対して課される正常性の権利である。この三重の権力が、狂気を医学にとって可能な認識対象として構成し、これを疾病として構成してきた。その時、そうした疾病に罹った「患者」は狂人として貶められるのだったーーーつまり、自分の疾病に関する一切の権力と一切の知を奪われたということである。

 

狂気と理性、精神病、監禁、逸脱と矯正(考察)

ここからは私が考えたことです。(フーコーが書いている内容とは少し離れます)テスト前でフーコー講義や解説書をざっと読んだだけで『狂気の歴史』そのものの精読はできていないため誤解の可能性があることをご承知おきください。

『狂気の歴史』はフーコー前期の著作で、のちにフーコーの軸となる「知」や「権力」についても取り上げられています。17世紀に乞食や狂人、怠け者などの「逸脱者」をまとめて収容したパリ「一般施療院((Hôpital général)」の設立に始まる「大監禁時代」の150年、18世紀末の狂人の"解放”、19世紀の精神病棟と刑務所への監禁と、時代とともに社会がどのように「狂気」を監禁してきたかに鋭く切り込んでいます。

 

皆さんは「狂人」に触れたことがありますか?駅前で座り込みわけのわからないことを口走っている人、電車で大声で叫んでいる人を見かけたら「近寄りがたい人」として関わらず一瞬後には忘れようとするでしょう。私もそうです。読者の方もそうだと思います。近寄りがたいもの「狂気」は、しかしながら、私たちのすぐ身近な他者に、私たち自身の中にあると思うのです。蓋をしているだけで。監禁しているだけで。

「非理性」、動物的なもの、は幻覚や幻聴、不審な行動として現れることもあるでしょうが、本能と衝動、感情の奔流として現前することもあるでしょう。デカルト以後の近代人間観は、人間を「理性的なもの」とします。現代でも、ポストモダンといいつつも、社会は人間に「理性的存在」であることを要求しているように感じます。しかし同時に人間は、「理性的存在であること」に窮屈さを覚え、本能と衝動、感情の奔流に身を任せたいと望むものでもあります。

仕事の後、大量にアルコールを摂取して「無礼講だ!」と言って馬鹿騒ぎしたい時もあるでしょう、祭りの喧騒、クラブミュージックの喧騒に身を任せて踊り騒ぎたい時もあるでしょう、性欲に身を委ねて獣のように性的欲求に身を任せたい時もあるでしょう。

それらは「非理性」です。そして、「健康」な人間は意図的にそう言った「非理性」に身を任せ、そのあとは何事もなかったように「理性」的な人間として振る舞う。

「狂気」はその「非理性」の先にあると思います。僕自身、うつ状態がひどい時には狂気に片足を突っ込んでいます。部屋にはものや脱いだ服や食べ物が散乱し、一日中座ってベッドに横たわって空を見つめている。頭の中には「苦しい、違う、違う」と渦巻き、常にネガティヴな感情に支配されている。自分の意思で自分の感情を統御できない。感情障害。大学1年から3年の僕はしばしばそのような状態に陥り、3年の後期、大学を休学して実家でまたそのような状態で過ごしていました。はたから見たら「狂気」の一歩手前だったに違いありません。

それでは、そうじゃない時、僕の中に「狂気」は一切ないのか?僕は「普通の人」っぽく振る舞うことに長けていると自負しています。少なくとも人前で「狂気」を現前させたことはないと思っています。しかし、それは自分の中に狂気を監禁しているだけなのです。自分は「理性的存在」なのだと信じて。

もし精神疾患を持っていなくても、癇癪を起こし感情の奔流に身を任せること、「理性」を失う経験を誰しもが持っているのではないでしょうか。しかし、自己像を把握する時、アイデンティティを同定する時に自身のそういった「非理性」には蓋をし「理性的な自分」のみで構築しようとはしていないでしょうか。

 

重篤な精神病患者は監禁されます。昨年、僕の親しい友人が東大病院閉鎖病棟に入院していました。閉鎖病棟では、外に出られなくなっていて、スマホも取り上げられていたようです。自分で首をくくらないようにカーテンがなかったり、下着も制限されます。下着が制限されるのは刑務所も同様です。精神科閉鎖病棟にしろ、刑事施設にしろ、建前は「本人が社会復帰できるようにするため」ですが、実態は「外部の人に迷惑をかけないようにする隔離」です。多数派の数の暴力によって排斥された少数者です。そしてそれら逸脱者は、「普通の人」から目に触れないところに幽閉され、みんなの目から隠されます。

私の父親は重度知的障害・身体障害者施設で医者をしています。手伝いに行った時、そこには「私たちの知る世界」とは全く異なった世界がありました。言語による意思疎通ができない患者さんが8割以上。手を握ったり、声をかけた時の表情の変化、僕らには理解できない発声の調子の変化からかろうじて感情を読み取る他ありません。車椅子に乗って、自力移動はできず、食事も基本的に施設職員の補助を要する。そんな人たちは、私たちの社会からは目に触れないところに隔離されています。

 

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

これは熊代享という精神科医の方のブログ記事です。かつては「狂気」として大きくまとめられ、表舞台にも「変わった人」として存在し社会に包摂されていた存在が、精神病理学の発展と周知によって、そして社会の情報化高度化によってはじき出される者が増え、「狂気」は分類され細分化され、「君はADHDでしょ。治療受けないと。」「君はASDでしょ。治療受けないと。」という風に、緩やかに社会に包摂されていたものがはじき出されているというようなお話です。興味のある方は読んでみてください。

 

フーコーの引用で医師の権力、「非狂気が狂気に対してもつ権利」「無知に対して行使される権利」について記しました。医者はパターナリスティックです。自己決定を重視する法曹と生命の安全・健康を重視する医療関係者は、常に「リベラリズムvs. パターナリズム」という形で臓器移植、延命治療、尊厳死、オリンピックでの感染症予防といった場面で対立してきました。「患者のため」医療関係者は本心からそう言います。「患者が自殺しないように」閉鎖病棟に入院させます。自宅療養している患者さんについても、家族が「本人のため」と言ってできる限り家で過ごさせます。そこにいい悪いの価値判断は介在しません。しかし、社会的に見ると、それは「健康な大多数」に迷惑をかけず、目に触れさせないようにしている「監禁」とも取れるのではないでしょうか。

 

「狂気」に魅了されたフーコーは、デカルトの時代に「大いなる閉じ込め」をされた「狂気」がニーチェサルトルの時代に復権してきていると言います。ニーチェ哲学史の大いなる転換点と認められていると同時に、晩年発狂して死に至ったことが知られています。フーコーを買ったのと同時にサルトルの『嘔吐』を買って読んだのですが、

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

主人公のロカンタン、そしてそれを投影しているであろうサルトルは明らかに狂気の淵にいます。そしてニーチェサルトルの功績は人類に讃えられているのです。哲学者に限らず、芸術の世界にも狂気の瀬戸際にいたものが高く評価されている例は多くあります。太宰治三島由紀夫…枚挙にいとまがありません。「狂人」もしくはその一歩手前だったものが高く評価されたのは、それは「論理的に説明可能」「言語で説明可能」な範囲での"狂気"だったからです。そして彼らが言語でもって「理性的に」語る「狂気」の片鱗を多くの人が自らのうちに感じ取っていたからでしょう。エヴァンゲリオンのような全ての登場人物が(監督である庵野秀明も含めて)人格障害精神疾患を抱えている作品が高く評価されるのもその流れだと考えます。

 

 

フーコーは劇や作品において「狂人」が真実を語るものとしての役割を演じることが多いと言います。一般人は、「自分たちとは違うもの」に真理を語らせたり神秘的なものを見出したりします。それはオリエンタリズムにおける東洋の神秘性や、「オカマが本質を語る」のような文化と通底するものであるはずです。それはレッテル貼りであり、理解の拒絶です。 僕のブログをそのような目線で読んでいる読者がいないことを願ってやみません。

  

まとめ

脱線が酷くなりました。社会には様々な「狂人」「逸脱者」がいます。発達障害、知的障害、身体障害、前科のある人、新興宗教に傾倒する人…そして、「社会」は、「多数派」は、それを閉じ込め蓋をし「自分は理性的だ」「自分は多数派だ」「社会は理性的な人間で構成されている」と信じて疑わず、そしてだからこそ回っていきます。個人のうちにも非理性の、狂気の片鱗はあります。そして個人の中の「狂気」も閉じ込められています。しかし人間は閉じ込めながらも自らの「非理性」や「狂気」を自覚し、時にはそれが発露できる場、それが発露されたコンテンツを求めたりします。「逸脱者」が隔離された方が幸せなのか、理解とともに社会に「包摂」された方が個人にとって幸せなのかは、個別具体的に判断するしかありません。しかし私は、「狂気」に片足を突っ込んでいる者として、「多数派」ではないものとして、隔離された小社会への理解の試みを辞めずに続けていきたいのです。そして自らのうちにある「狂気」を肯定しながら、その手綱の取り方、付き合い方をも探っていかなければなりません。

 

 

 

(「簡潔にまとめる」とかいって8500字になりました(苦笑))